序章「写真」
それの手は綺麗だった。
昔はよくそれの手に泣きじゃくる僕の頭を撫でられたものだと思い出していた。
暖かで柔らかく桃色に血の通っていた手。
今やマネキンのように血の気はなく無機質だが曲線が美しく、彫刻のような手になっていた。
それは少し前まで僕の姉だったものだ。
僕の姉は先刻死んだ。
春の訪れを感じる3月23日。
姉は22歳でその日大学を卒業し、未知なる社会へ踏み込もうというところだった。
卒業式の後、同級生と飲み明かしその帰り道で通り魔の凶刃によってということを僕は病院で警察官に教えられた。
そいつは捕まったらしいが、あまりの若さでの死去に父も母もただ呆然と、しかし涙が自然と溢れていたが現実を受け入れずにいた。
唯一の救いは刺された腹部以外綺麗なまま、死体となっていたことぐらいだろうと思った。
当時、僕は中学二年生で父と母とともに姉の安置所へと案内された。
そして姉の死体を最初に見て思ったのが綺麗だということ。
すると僕はある衝動に駆られた。
この美しいものの写真を撮りたいと。
僕は当時写真部に入っており中学一年生の時に恥ずかしげもなく父に何度もねだり貰った父が昔使っていたボロの一眼レフカメラをいつも持ち歩き、写真を撮るのが趣味だったのだ。
しかしなぜそんな衝動に駆られたのか今でも分からないが、姉の死が現実のものとは思えず、姉の死体が夢のように綺麗だったからだと思う。
僕は自分自身でも分からないままカメラのレンズを死体に向けて、
シャッターを押した。
唐突なカシャリというシャッター音に気づいた呆然としていた両親は何をしてるんだと、こんな時に写真を撮るんじゃないと涙を流しながら僕を叱責するが、僕は自分の中の違和感のせいで両親の言葉に何も感じなかった。
この時、確かに僕の中で狂ってしまったものがあったのだろう、なぜなら僕は一切涙も、それどころか悲しみさえも湧き出してこなかった。
それ以来、僕は何も感じなくなってしまった。
まるで額縁の中の世界を見ているかのような。
いやそんな綺麗なものではなく、まるで興味のない大学生の自主制作映画を見させられているような突拍子もなく現実感のないものを見ている感覚だった。
そして、ある日両親に姉の死体の写真を消せと言われ言われるがまま消そうとカメラで姉の写真を見た。
その美しい姉の写真を見て、僕は気づけば大粒の涙を流していた。
喪失感を実感して、涙が溢れてきたと分かった。
嗚咽を漏らしその写真を見ると涙と悲しみが湧き水のように溢れ出した。
僕は気づいた。
あの日、現実を直視出来なかった僕は、カメラの中に全てを置いてきたのだと、感情も現実感も、僕の全てをこの現実から背けたのだということを。
そして、カメラを通してしか現実を受け入れることができなくなってしまったということを。
僕は気づいた。
僕には全ての感情が無くなってしまっているということを。
溢れる涙を拭い持っていたカメラをそんな自分を否定するかのように床に投げつけ叩き壊した。
その日から、僕は写真を撮ることをやめた。