研究所(3)
変装するからこれを着てね、といわれていくつかのものを手渡されたのは、リリスが気の済むまで泣いて、そろそろ涙も止まってきたかという頃だった。だが渡されたものを見て、まだ少し目端からこぼれていた涙としゃっくり声は完全に止まってしまう。
「これってまさか……」
「うん、変装するにはこれが一番いいかと思って」
「無理無理っ、こんなのすぐばれちゃうわよ!」
にっこり笑うシャンディに、リリスが素っ頓狂な声を上げるのも無理はなかった。手渡されたのは着古した白衣と幅広のゴーグル、黒のキャスケット帽、だぼだぼのズボン、それになぜか足袋。
「……これ、シャンディの?」
「そうだよ。男装すりゃ分からないでしょってことで」
「ええええー?!」
さらに無理なことを聞かされて、もう驚くしかない。そんなリリスを尻目にシャンディとネリスはせっせと準備を始めた。
「さ、リリス、ちゃっちゃと着ちゃってよ。髪はやってあげるから、ほら着替えた着替えた」
「で、でも……」
「僕は部屋から出とくよ。いるものをもってまたここに来るから、それまでに準備しといてよね」
「……はーい……」
気がのらないながら、リリスはしぶしぶ返事をする。シャンディはそんなリリスににっこり笑いかけ、部屋を出て行った。後ろで髪をまとめてくれるネリエはそのままに、仕方なくズボンと足袋を身に着け始める。リリスより少しだけ背の高いシャンディのズボンはほんの少しだけ長かったが、すそを折り返してしまえば余り気にならなかった。
むしろ違和感があったのは足袋のほうだ。
「ネリエ、これ気持ち悪い……」
「我慢するしかないわよ、あたしだってそれに慣れるのは時間かかったもの」
「でもなんで足袋なの?」
「んーと、わかんないのよねぇ……これ、ウチの所長の趣味だから」
「あ、そう……」
趣味といわれればそれで納得するしかない。だが歩きにくいことこの上ない。素足で床を歩いている気分で気持ち悪いが、ネリエの言うとおり、なれるしかないのだろう。リリスが足袋に悪戦苦闘している間に、ネリエは手際よく髪をゴムでくくり、それをピンでいくつか留める。するとあっという間に腰近くまであったリリスの髪はショートカット風にまとめられた。最後にキャスケット帽をかぶせてネリエは出来上がり、とリリスの頭をぽんぽんと軽くたたいた。
「ハイ、これで終わりよ」
「ありがとう。後はこれを着るだけだから」
そういって、白衣を羽織ってゴーグルを首に引っ掛ける。これで完成だ。
「どう?」
不安げにそう問いかけてみると、ネリエは笑顔で太鼓判を押してくれた。
「完璧よ。どこから見ても立派な男子研究員だわ」
「そう……かしら」
「ええ、絶対大丈夫よ。さ、いきましょう」
そういわれて手を引っ張られ、ドアのほうへ導かれる。だが外へ出るには足がすくんでしまう。もし、知っている人にあったら。誰かに正体がばれてしまったら。それが怖くて、なかなか一歩が踏み出せない。
「やっぱこれじゃ無理……」
「大丈夫だってば、ね?」
「だめだめだめ。絶対無理……」
ぎゅっ、と両手でキャスケット端を引っ張り、目深にかぶる。前はほとんど見えないくらいに深く。それでも恐怖は一向に収まらない。
ここから出なければいけないのは分かっている。そうしなければ、何も始まらないのだ。だがそれを上回る恐怖――身内の人間に見つかるかもしれない、という不安がリリスの足をすくませる。どれだけ大丈夫だと言われても、到底足を踏み出せそうにない。その様子を見たネリエは、ため息をひとつついてから部屋の中へと手を引いて戻った。無理やり連れ出すのはできないと判断したのだろう。リリスをベッドの端に座らせると、彼女も横へと腰かけた。
「とりあえず、シャンディが戻ってくるまで待つことにするわ。その間、外に出る心の準備、しておきなさいよ」
「うん、頑張る……」
リリスはネリエの優しさに感謝しつつ、ゆっくりと息を吐いた。いつの間にか体に力が入ってしまっていたらしく、どこか呼吸がぎこちない。しばらく二人は黙ったままだったが、不意に思いついたようにネリエがぽつりとつぶやいた。
「しかしまぁ、着れるもんね……ほとんどぴったりじゃないの」
驚いた、と言いながら上から下までリリスを眺めるネリエ。確かに彼女のいうとおり、身長の近いシャンディの服はほとんどぴったりだった。
「たしかにね。多分ネリエのだったら、ぶかぶかだっただろうし……」
「一応あれでも背は伸びたみたいなんだけどねぇ」
まだまだネリエには届かないよね、と、言ってからリリスとネリエは顔を見合わせて笑った。そこに、ガチャリとドアを開ける音が響く。
「それはつまり、僕がチビだって事を言いたいの?」
「うわわっ、シャンディ、居たのっ?」
「ついさっき戻ってきたんだよ。ていうかリリス、なーんでそんなに慌ててんのさあ」
じとっ、と睨まれ、ついたじたじとなる。そういえば、昔からこの友人は身長の事となると怖くなるのを今更ながらに思い出す。
「ええっと、いやその……ネリエ、が……」
「あらぁ、あたしはほんとのこと言っただけよー? だってあたしのほうが背ぇ高いし」
あっけらかんと言い放つネリエに、逆に慌てたのはリリスのほうだ。いつもは精神年齢の高い彼が、身長の事となるとまるで子供のようになってしまう。ネリエお願いだからそれ以上言うのはやめて、と思いながら恐る恐る彼のほうを伺い見る。すると、思った通り表情は妖魔も裸足で逃げ出すぐらいに目は吊り上り、怒った顔へと変化していた。
「わ、私よりは高くなってるじゃない、シャンディ。ね?」
「君よりは、ね……ネリエより低いことには変わりないんだけど」
「男の子だもの、まだ成長期よ? だからきっとまだまだ伸びるわよ!」
いつものおっとりした表情はどこへやら、とって食われそうな雰囲気を放つシャンディに、今度こそ涙目になりながら必死で弁解するリリス。言いだしっぺであり元凶であるネリエは、いつに間にやら知らん振りして戦線離脱している。
「ヘぇー……ふぅん……そう……」
「きゃー! とりあえずごめんなさいっ!!」
低い声で適当な相槌を打つシャンディの怖さに耐えられなくなり、とうとうリリスは悲鳴を上げた。だが次の瞬間、二人分の笑い声に包まれて、目を丸くする。
「それだけ大声が上げられるんならもう大丈夫だね。怖さ、少しはなくなった?」
「……え?」
「少しは緊張もほぐれたでしょう? さっきまで、酷く思いつめた顔をしていたから……」
「もしかして、私のために……?」
驚きながらそう問いかけると、二人は笑顔で頷く。確かに言われたとおり、体のこわばりは消えている。あれだけ胸の内に渦巻いていた不安も、きれいさっぱりなくなったとは言わないが、気にならないぐらいには小さくなっている。リリスは彼らの思いやりに感謝すると同時に、胸がすっと軽くなるのを感じた。
「ありがとう……うん、もう大丈夫よ」
力強く頷いてみせてから、リリスは立ち上がる。両脇にいてくれる二人がいればきっと、外に出ても怖くない。この二人を信じてみよう、と思った。
「連れて行って、シャンディ。セレスを助けれくれる手立てを持つ、その人のところへ」
「ついておいで。どんなことがあっても、僕とネリエが必ず連れて行ってあげるから」
どこかわざとめいたその会話は、お互いの決意を固めるための儀式。視線を交わしてその決意を新たにした三人は、意を決してドアの外へ出て行ったのだった。