別離
別れの時は程なくやってきた。あらかじめ、送ることが出来るのはダウンタウンの入り口までだと言われている。セレスのいる宿からそこまでは余りに短い分かれ道だった。
むき出しの土を踏みしめる音が交互に続く。お互いに示し合わしたわけでもないのにその歩みはずいぶんとゆっくりで、リリスはセレスと別れるまでのつかの間の幸せを噛みしめた。そこに向かうまでの間やはり会話はなかったが、今はそれでも傍にいられるだけでよかった。姿を見ているだけで、並んであるいているだけでよかったのだ。ただ、それだけで。
だが、あと少し、あと少しと願う想いをよそに、どんどん別れの時は近づいてくる。やがて見えてきたのは崩れかけの石階段――そこを登り切れば、それはやってくるのだ。
コツ、コツと石階段に響く音はまるで最後まで時を刻むカウントダウンのようだった。階段を登っていくにつれゆっくりと大通りの喧噪が近づく。
あと二歩。
――あと一歩。
そうして、セレスの歩みが止まった。
「すまない。俺が来れるのはここまでだ」
セレスと同じように歩みを止めたリリスはゆっくり頷いた。大丈夫、まだ泣かない。
「本当に……ありがとう」
「こっちこそ礼を言う。おまえのような人間は初めてだったからおもしろかった」
「私のような人間?」
「こんなによく泣く人間をみたのは初めてだった」
なかば苦笑するように言ったセレスに、リリスは少しばかりムッとしてふくれる。
「それは誉めているのかけなしているのかどっちなの?」
「誉めているんだ。喜怒哀楽の大きい人間だと」
「誉められてるようには聞こえないけど……ありがとう」
苦笑しながらそう言うと、ふっとセレスの目元がゆるむ。それをみて、リリスも柔らかく笑った。沈黙した二人の間を、ざぁっ、と風が駆け抜ける。不意に伸ばされたセレスの手は、リリスの頭にのせられた。
「?」
何をされるのだろう思って見上げる。すると、目を細めたセレスは不意にわしゃわしゃと頭をなで始めた。思いもよらない行動に、リリスは固まってしまう。そんなことをされたのは、あの夜以来だった。
だが温かい手はとても優しく、心地よかった。頭をなで、髪をすき、セレスの大きな手が何度も行き来する。くすぐったいような、むず痒い感覚に、リリスは目を閉じてされるがままになっていた。しばらくして、その手は名残惜しそうに離れていく。ゆっくりと目を開けると、最後にぽんぽんと頭を軽くたたいてセレスは手をおろした。
「俺のいないところであまり泣くんじゃないぞ。もう泣きやませてやれないからな」
優しい声音でそう言われて、思わず胸がいっぱいになる。声を出すと泣いてしまいそうで、うん、と頷くのが精一杯だった。
(だめ。あともう少し。少しだけ、我慢しなきゃ)
そう自分に言い聞かせ、とびっきりの笑顔で上を向く。
「大丈夫! もう泣かないわ。セレスなんていなくても平気よ。心配しなくて大丈夫なんだから!」
精一杯明るくそう言って、くるりとセレスに背を向ける。そうでもしないと、今にも泣いてしまいそうだった。
「ああ。そうだな。それだけ笑えているなら安心できる」
耳の奥で優しく溶ける声音に、自分の空元気が気づかれなくてよかったと安堵する。後ろを向いていたからこそリリスは気づかなかった。言葉を返したセレスの表情が、少し寂しそうにかげっていたことを。そんなことを知らないままに、リリスは背を向けて、セレスに別れを告げる。
「私、もう行くわ。あんまりここに居たら誰かにセレスの姿が見つかってしまうかもしれないし」
「そうだな。じゃあ、元気で」
「セレスこそ体を大事にねっ! さよならっ!」
「ああ……さようなら」
最後のセレスの言葉を聴くか聞かないかのうちに、リリスは走り出していた。一度も後ろを振り向かず、ただ宿までの道を走る。
走って、走って、走って。途中何度も人にぶつかったが、今はそんなことを気にしていられなかった。止まってしまえば、後ろを振り向いてしまいたくなる。振り向いてしまえば、もう一度彼のところへ戻りたくなってしまう。だから、スノードロップまでリリスは止まらずに走り続けた。息が切れて早く走れなくなっても、ずっと。
やがて見つけにくいスノードロップの看板が見えてきて、ようやくリリスは足を緩めた。激しい動悸を押さえるように胸に手をやり、息を整えながら歩いていくと、看板の前に立つ人の姿が目に入る。それは居るはずのない人の姿だった。リリスと同じ亜麻色の髪に琥珀色の目を持つその人物。彼はリリスを見つけると待ちきれないとばかりに駆け出してきた。
反対に、驚きで思わず足を止めたリリスは大きく目を見張る。
「伯父……様……っ?!」
「すまなかったね、リリス。もっと早く来る予定だったんだが、なかなか来ることができなかった。お前にはいろいろつらい思いをさせてしまった」
「ルディ伯父様っ!!」
最後に会ったときとまったく変わらない優しい笑顔。腕を広げた伯父に迎えられ、リリスは一瞬ためらったものの、思い切って胸に飛び込む。その体にすがりつくと、すぐにぎゅっと大きな腕に抱きしめられた。そこでリリスの最後のプライドが瓦解する。もう、止められない。小さな子供みたいに声を上げ、ここが道の真ん中だということも忘れてリリスは泣きじゃくった。あとからあとから溢れてくる感情に頭が追いつかなくて、ただ泣くことしかできなかった。
いったい、いつまで泣いていたのだろう。ルディはずっと、泣くリリスを抱きしめたままそこに居てくれた。やがて少しずつその泣き声が収まってくると、伯父はリリスを抱え上げ、宿の中へと入る。そうしてつれてこられたのは、リリスが寝泊りしていた部屋だった。
「伯父様……」
「何も言わなくていい。辛い思いをしたんだろう? 今はゆっくりお休み。ずっとついていてあげるから」
「うん……ありがとう……」
泣くのに体中のエネルギーを使い切ってしまったのか、頭が霞がかかったようにぼうっとする。言われるがままにリリスはベッドに寝かせられ、その目を閉じた。
今は眠ろう。そして、次に起きたときにはこの気持ちを忘れられていますように、と祈ろう。でないと、またあの人に逢いたくなってしまうから。
――せっかくの決意が、揺らいでしまいそうになるから。




