口論
リリスが泥沼へと足を取られ、苦戦していたころ。
銀の髪と青の目を持つ男はある人物に会いに行くために、ヘパティカの南門へと向かっていた。空色の瞳は鋭く光りながらあたりを探り、男は荒々しく道なき道を蹴立てて進んでいく。 風を纏っているかのように速いスピードで駆ける男の目に、やがてヘパティカの門が映る。そこにはひとつの人影がたたずんでいた。
「おや、君が来たのか。私が待っていたのは君ではないんだが」
「そんなことぐらい知っている。スノードロップの主人、なぜあの少女をあの場所へ行かせた?」
「知り合いだったのかい。まさかとは思ったが、本当だとはね」
「とぼけたふりをするな! 何もかもわかっていて、あいつをあそこへやったんだろう!」
食えない笑顔で笑う主人に、男はとてつもなく苛立ちを覚えた。少女があの場所へ来れたのは、紛れもなくこの主人の所為だ。一つ間違えば、リリスは間違いなく殺されていただろう。
「なぜこんなふざけたまねをする!」
苛立ちを隠さずに食って掛かると、主人は面白そうに笑った。彼はいつも何もかも判っている顔をする。 男はそれが気に食わなかった。
「どこかから見ていたのは知っているんだ。おおかた、俺が現れるかどうか確かめたかったんだろう?」
「おや、鋭いね。人間嫌いの君が現れるはずがないと思ってあの場に居たんだがね……まさか現れるなんてびっくりしたよ」
「人間は嫌いだ。それは変わらない」
「じゃあ、山賊からあの子を助けたのはどうしてなんだい? それに、君にあの子の行動をとやかく言われる筋合いはないんだがね」
思いもよらないところをつかれ、男はぐっと言葉に詰まった。なぜあの少女にこだわるのか、自分でもわからない。人間嫌いは変わらない、それは先ほどの言葉で言ったように本当だ。それなのに、あの少女だけは出会ったときからなぜか気にかかる。山賊に襲われている少女を助けたあと、自分でもらしくないことをしたとあきれたものだ。だが不思議なことに、あの少女に限っては男が嫌う人間特有の臭いをあまり感じないのだ。
「どうやら本当にあの子の言ったとおりらしい。珍しいこともあったものだ」
「面白がるんじゃない! まだあいつを関わらせるつもりか?!」
「私は一応止めてみるが、あの子は自分でちゃんと納得できるまできっと君を追うだろう。自分で真実を聞き出すまではね。それはわかっているだろう?」
「俺はちゃんと言った。俺は妖魔だと。そして青い瞳は魔力を食らう妖魔の象徴だと。それではまだ真実を言っていないというのか?」
ぎりっ、と歯を噛みしめて男が問う。本当はわかっている。あの少女の問いに、自分は答えずに背を向けてその場を去ったのだから。それでもあの時少女に言った言葉に嘘はなかったし、男は自分のことをこれ以上少女に話すつもりはなかった。
「君はあの子が聞きたかったことをまだ言っていない。君は妖魔ではあるが、“青の妖魔”ではない、という真実――それがあの子の聞きたい真実だ」
一番聞きたくない答えだった。それだけは、絶対に話すまいと決めていたことだからだ。
「いつもの君だったら、自分の望みのために平気であの子を利用することぐらい平気でやると思ったんだがね。私の思惑は完全に外れてしまったよ」
「あいつを……俺に利用させようと思ったのか」
「あの子の魔力はそこらの人間ごときじゃ扱えない。だからあの子は今まで魔法使いになれず、挙句に家を追い出された。 けれど、君なら扱えるだろう? 魔力を食う妖魔が人間ごときの魔力にのまれるなんてあり得ないからね」
確かに、主人の言っていることは完全に的を射ている。いつもの自分だったらあの場で少女を殺し、魔力を食らうことなど簡単にやってのけたはずだ。たった一つの望みをかなえること。それ以外に自分が優先するべきことなどないのだから。そのためには人間を犠牲にしたってかまわない、むしろ人間なんて自分が利用する程しか価値のない虫けら同然のもの――そう思っていたはずなのに。
「私は君の望みに協力する――最初に私のところを訪れたとき、そう言ったはずだよ。 君が願いをかなえるためには、私は何でもする、と。君の願いはあの妖魔を倒すことだろう?」
「そうだ。それこそが俺の望み。俺は欲するのはそれだけだ」
「ならば、あの子を犠牲にするのをためらう必要はないだろう?」
主人の問いかけに男は黙する。それが一番手っ取り早い――頭では理解しているのに、どうしても素直に頷けない。せめぎ合う相反する気持ちに男はわけのわからない苛立ちを覚えた。
「明日、あの子はもう一度あの場所へ行きたいと望むだろう。“青の妖魔”は一度魔力を食らうと最低二日は人間を殺さない。 君に残された、あの子の魔力を手に入れる最後のチャンスだ」
「お前はそれでいいのか。親友に、あの子を託されていたんじゃないのか?!」
「私の願いも君と同じ。そのために、最善の手段を選択するだけだよ」
「しかし――」
さらに言葉を継ごうとしたとき、視界のはずれにかすかな明かりが映る。 はっとその方向を見ると、小さな人影が近づいてきていた。明かりの主が誰なのか気付いた男は舌打ちをし、さっと身を翻す。
「どうやら時間切れのようだね」
主人がそう告げるのを聞くのが早いか、男は門をくぐって姿を潜めた。 あの少女にはまだ見つかりたくなかった。
足早に歩いて程なく大通りへと出る。 夜もだいぶ更けたころだというのに通りにはまだ人が歩いていた。人目につくのが嫌いな男は大通りを素早く突っ切り、細い路地へと入る。ここはヘパティカでも一番治安の悪いダウンタウンで、孤児や浮浪者があたりをうろついていた。しばらく歩いて、周りの人が奇異な目で自分を見つめるのに気付いた男は愕然とする。まばらに立ち並ぶ古ぼけた街灯に照らされているのは、いつもは深くフードをかぶって隠している銀の髪だった。
「俺は何を動揺しているんだ……」
自分に呆れてそうつぶやくと、男は深くフードをかぶった。先ほどの主人の言葉に、まだ心が揺れているのだ。あの少女を犠牲にしたなら、自分は必ず“青の妖魔”を倒せる――それなのに、何かが邪魔するのだった。わけのわからない葛藤にもどかしさを覚え、周りのものを手当たり次第に破壊したいという衝動を必死で抑えた。大きく一つ深呼吸して気持ちを静めると、ダウンタウンの入り組んだ道を抜けて宿へと向かう。 明日はどちらにしろまたもう一度あの場所へ向かわなければならないだろう。全く気の乗らない予定に、男は深いため息をついた。