別れ
日が高くなって少ししたころ。しばらく冷たい水で冷やしたリリスの目の赤みはすっかりひいていた。暖炉の火はとっくに消えていたが、もう一度火を起こすほどに寒くもない。わざわざたいそうな朝食を作るわけでもないので、燃え尽きた薪の灰が多く残る暖炉はそのままにし、二人は軽い朝食をとった。
お互い持参していた保存食を黙々と食べる。リリスが食べている味気ない干し肉は沈黙のおかげでさらに味気くなっていた。だが話す話題も見つからないまま、二人とも黙々と口へ運ぶ。男はさらに食べる速度が速く、リリスが半分食べたころにはもう食べ終わっていた。ようやくリリスが食べ終わって身の回りを片付け始めると、男は自分の荷物を手に取り、ぽつりと告げた。
「では俺はそろそろ行く」
「もう少し、ゆっくりしていけばいいのに……」
「そういうわけにもいかない。今日中に山を越えなければならないから少し急ぐ」
思わず引きとめてしまったリリスに、男は少し困った顔をしながらすまなそうに言った。そこで、そういえば自分のせいで男は急がなければならなくなったのだと気付く。
「ごめんなさい、私を助けたばっかりに余計な時間を……」
「気にしなくていい。もともとこの小屋で一晩を過ごそうと思っていたからな。一人よりは賑やかでよかった」
少しいたずらっぽい表情でそういわれ、リリスは苦笑いをする。しかしさっきよりは余裕もあったので、お役に立てたなら、と軽口でやり返す。そうして二人で笑ったあと、男は短く別れを告げた。
「短い間だったがなかなか楽しかった。もう山賊には捕まるなよ。じゃあな」
「気をつけるわ、あなたも元気でね」
「ああ」
最後に交わした会話は当たり障りのない短いものだった。小屋から出て行く男をそっと見送りながら、リリスは寂しいと感じる感情をできるだけ心の中へと押し込める。
(もっと話したかった、もっと一緒にいたかった、なんて思っちゃいけないよね。 それは私のわがままだもの)
あの人はただ、山賊に襲われていた旅人を助けただけだ。そしてその旅人が、たまたまリリスだった。たった、それだけのことなのだ。それなのに、なぜだかはわからないがとても悲しかった。
きっと、あの人の優しさは誰に対しても与えられる優しさなのだ。 昨日リリスを撫でてくれた手も、与えてくれた数々の言葉も。そうして昨日の出来事を思い出していると、自分が言い忘れた言葉に気付く。
「私、あの人に助けてもらったお礼、言ってない……それに、名前も知らない」
一晩も一緒にいたのに。お礼を言う機会も名前を聞く機会もあったはずなのに、リリスはできなかった。お礼を言えば、きっと彼は優しい声音でリリスの欲しい言葉をくれるだろう。名前を問えば、もっと他のことも聞きたくなってしまうかもしれない。だから、言えなかったのだ。 すぐに別れてしまう人と深く関わってしまえば、きっと分かれたときにつらいだろうから。
それでも、やっぱりリリスは寂しいと思ってしまった。二人でいたときは感じなかったのに、今は一人でいると山小屋が妙に広く感じる。どうしてこんなの自分は弱いのだろう。家を出たときに、もう人には頼らない、信じないと決めた。ずっと一人でいよう、そう決めたはずだ。自分には、「魔法使い」になるための相手になってくれる人など絶対に現れないだろうし、そうなれば一生サーシャ家には戻れない。だから、一人で強く生きていこうと思った。
それなのに、優しい人が現れたら縋りたくなってしまった。もっと相手のことを知りたいと思ってしまった――だめだとわかっているのに。
「しっかりしなきゃ!」
限りなく沈みかけた気分を振り払うようにぶんぶんと首を振って自分の頬をたたく。ぐっと前を見据えて気合を入れてからふと外を見ると、もう日は随分高くのぼていた。リリスは今まで考えていたことを振り払うように勢いよくイスを立ち上がり、部屋の隅にあった自分の荷物に手をかける。
(今日は昨日よりも温かそうだから、マントはなしで行こう)
そうしてリリスも山小屋に別れを告げ、山の中を歩き出した。
「うん、今日もいい天気!」
今は空元気でもいい。目的地の魔法都市ヘパティカはもうすぐだ。何も考えず、わき目もふらずにせっせと半日歩いたら、夜になる前に到着できるだろう。ヘパティカに着いたら、さっさと宿屋でご飯を食べて寝てしまおう。そうすれば、きっと寂しい気持ちも、あの人のことも忘れられるはずだから。