バイバイ、ブラック
そのテロリストがやって来たのは昼も過ぎた一番眠たい時間だった。ちなみにそのとき僕は営業成績の悲惨さを上司に叱責され、さらには終電間際まで続く残業が確定して意気消沈していた。
大学を卒業してここに入社してから早二年。いい加減この会社とこのメタボ上司にはうんざりとしていたところだった。
「うらあっ、全員手を上げろ!」
そのテロリストは拳銃を向けてオフィスに侵入してきた。格好は宅配便の業者だが、どうやら上手く変装しているらしい。僕は拳銃よりも『どこでそのコスチュームは売っているんだい?』と聞きたくなった。
オフィスにいたのは僕を含め三十名ほど。誰もが状況を飲み込めず、ポカンとしていた。一発ギャグが不発に終わり空気が凍りついたような寒さがオフィスを支配する。
けれど次の瞬間に状況は一転、テロリストが拳銃を一発撃った。空砲ではない、実弾だ。耳を破裂させんばかりの音がとどろき、僕たちは固まった。
撃たれた弾は蛍光灯に直撃し、ガシャンと破砕音を立てて砕け散った。
「……キャアッ!」
女子社員の一人が悲鳴をあげ、ようやく僕達は状況を飲み込んだのだった。
「いいかっ、警察にも連絡するんじゃねえぞ!」
テロリストの男は怒鳴り散らす。「通報しやがったらぶっ放すからな!」
「き、君の狙いはなんだ?」
言葉を詰まらせながら上司が問うた。僕を叱責した時の威勢のよさはどこへやら、今は生まれたての小鹿みたいにプルプルと体を震わせている。
「良い質問だ。これを見ろっ!」
男はそう言うと、作業着の上着をバッと広げた。
僕達は彼の腰に巻かれたモノを見て息を呑む。爆弾が腹に巻かれているのだ。ご丁寧にタイムリミットの表示板が爆弾の中央についている。これなら素人目にも爆弾だとわかる。
ちなみに残りあと五分。みじかっ。
「俺はもう生きることに疲れたんだよ……。だからここでお前らを巻き添えにして死ぬことにした」
「なぜ我々を、なぜここを!?」
「巡り合わせだ」
「そんな無茶苦茶な!」
上司が悲鳴を上げる女子社員みたいに悲痛な表情を浮かべ頭を抱えた。見ていて腹立たしくなり、僕は立ち上がった。
「おい、生きることに疲れたって言ったな、オマエ」
僕が言うと、テロリストは「だからどうした」と挑戦的な目つきを向けてきた。
「疲れているのはオマエだけじゃない。誰もがみんな疲れている。自分だけが疲弊しているだなんて思うのは間違っている」
「ふんっ、言いたいことはそれだけか!」
「いや、まだある。疲れはするが楽しいことだってあるぞ。浮かべてみろよ、楽しいことを」
「……」
男は沈黙する。僕はその隙を見逃さなかった。
「な? あるだろ、オマエにだって楽しいことが」
「でも、俺は……」
「疲れたら休めばいい。そういう時間を取ることもできる。遠回りになってしまうかもしれないけど、きっと前に進める。死んだら、そこで終わりだぞ? いいのか? 楽しいことが未来に待っているかもしれないのに!」
僕の叫びに、男は顔色を険しくて黙りこくる。
やがて男は目に涙を浮かべながら頭を下げた。
「……すいませんでした。俺が、悪かったです」
「わかってくれればいいんだ。さあ、その物騒な銃と爆弾をこっちへ」
「うっす」
男は僕の指示通りにまず銃を僕に手渡し、それから腰に巻いた爆弾を寄越した。爆弾はスイッチを切って爆発しないようにしてくれた。てっきり『赤と青の線どっちを切る?』みたいな命がけの山勘を試さなくてはならないのかと思っていたので拍子抜けである。
「おぉっ、やるときはやるじゃないか!」
上司が歓声をあげる。
――あぁ、やるときはやるよ。でも僕はまだ何もやっちゃいない。
満面の笑みを浮かべる上司に、僕は銃を向けた。
僕の挙動を理解できなのか、上司は目を瞬かせるばかり。
「な、何の真似だ?」
「黙れ」
僕は上司を一喝し、手を上げさせた。上司は銃の前には無力で、僕の指示通りあっさりと手をあげる。
「おいっ、何の真似だと言っているだろう! こんなことしてタダで済むと思っているのか!」
「黙って大人しくしてろ。上手く腰に巻けないだろうが。全く、無駄に太りやがってこのメタボ野郎が」
「き、貴様……それは!?」
「無駄な贅肉を吹っ飛ばして差し上げましょう」
僕は爆弾を腹に巻きつけた上司を見て満足する。そしてスイッチを押した。残りあと三十秒。
三十秒の間に上司は涙を流し今までの僕に対する非礼を詫びた。
僕は「はぁ」とか「ふーん」と聞き流した。
そして、残り三秒――
「バイバイ、地獄のブラック企業」
即興小説で書いた作品を一部加筆修正したものです。加筆したのは一行程度ですし修正と言っても誤字を直したぐらいですので、ほぼ原文のままです。