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馴染みのない言葉と注釈の話

 前にも書いたが、海外の作品には「日本では馴染みのない単語」がしばしば登場する。こういう場合、そのままカタカナなどで表記する場合と、「日本で馴染みのある単語」に置き換えて訳す場合がある。後者は特に子供の本などによく見られるが、正直、読んでいて面食らってしまうことも多い。

 例えば、あるイギリスの児童文学。現在、イギリスの通過はポンドとペンスに統一されているが、その前は様々な通貨がごちゃごちゃと使われていた。ポンドとペンス以外に、ファージング、シリング、ギニー、クラウンなどが一緒に使われていたのである。ちなみに、十二ペンスで一シリング、二十シリングで一ポンドなのはまだいいのだが、二十一シリングで一ギニーになるのである。これでよく、当時のイギリスの人は混乱しなかったなあと思ってしまう(もっとも、日本の江戸時代の通貨も充分すぎるくらいややこしいので、よそ様のことをどうこう言えないかもしれない)

 そんなややこしいイギリスの通貨が、ポンドとペンスのみになったのは、一九七一年のことである(余談だが、この時から百ペンスで一ポンドとなった)だから、それ以前に書かれた作品や、それ以前の時代を舞台とした作品では、このややこしい通貨が使われることとなる。児童文学の場合、読む対象は子供だ。それでその本の翻訳者がどうしたのかというと、子供には理解できないだろうと思ったのか、お金を全部日本円で表記してしまったのである。

 だが私の正直な感想を言わせてもらうと、「何故イギリスなのに日本のお金を使っているの?」と思ってしまう。舞台はイギリスで、登場人物もエミリーとかそういう名前なのに、お金だけが日本円なのだ。「レースを買うのに千五十円あれば足りるかしら」なんて言わせるのはやめてほしかったと思ってしまう。

 そもそも、当時の私は他にも様々な外国の児童文学を読んでいた。そういった本の中には、注釈でイギリスの通貨について細かく書かれてあるものがあったため、そういったことは既にしっかり把握済みだったのである。だからこそ余計に「イギリスの話なんだからイギリスのお金の表記にしておいてほしい」と思ってしまっていた。

 余談だが、今この文章を書いてみて、自分がイギリスの昔の通貨をおどろくほど細かく憶えていたので、ちょっと自分でも呆れてしまった。本の力というのはすごい。魅力のある作品なら、その世界観を形作るすべてを、読む者の頭にたたきこんでしまえるのだから。



 翻訳されるときに、適当な言葉に変えられてしまう単語の中に "bun" がある。これは小さな丸いパンのことで、ハンバーガーに使われるパンも "bun" である。ハンバーガー用のものを特にハンバーガーバンズと呼んだりもする。これはそこそこ馴染みのある単語だが、"bun" には他にも様々な種類がある。シナモンの入ったシナモンバンや、レーズンの入ったレーズンバンだ。

 そのせいか、この言葉の訳語は様々である。丸パン、甘パン、菓子パンなどだ。レーズンバンの場合、「ぶどうパン」と訳されていたこともある。これは、まあ、妥当なところだ。

 ちなみに上の、私がイギリスの通貨を憶えてしまった児童文学作品というのは、井伏鱒二訳の『ドリトル先生シリーズ』なのだが、この本では訳語が「あんパン」になっている。おそらく、井伏鱒二は「おやつに食べるパン」というイメージからこうしたのだろう。だがあんパンは日本独自のものなので、今となるとやっぱりズレが目立ってしまう(ちなみに、「あん入り饅頭が食べたい」というシーンがあるのだが、これは原書を持っていないので、もとの言葉を確認できずにいる。これも "bun" なのだろうか)

 また、この作品にはガブガブという食いしん坊のブタが登場する。彼の好物は "parsnip" という野菜なのだが、これが井伏訳では「オランダボウフウ」という訳語が当てられている。これも当時の私には未知の野菜で、葉野菜なのか根野菜なのかすらわからなかった。そして、『農場の少年』で、ご馳走の一種として登場する、「パースニップ」と同じものだなんて、思いもよらなかった。バーバラ・M・ウォーカーの本によると「象牙色をした長い根を食べる野菜で、味はカブに似ている。手に入らない時は、カブで代用可」となっているが、食べたことがないので味がわからない。

 なお、ドリトル先生に関しては最近角川文庫から新訳版が出ており、こちらでは食べ物関係の単語は原文に近いものとなっている。だが代わりに、お金が日本円に変更になっている。概ね好意的に受け止められているようだが、私としては、少し淋しい。



 日本では馴染みのない言葉をどうするか。これは非常に悩ましいところであり、翻訳者泣かせだなとは思う。実際、「子供たちがラウンダーズをして遊んでいます」と書かれたら、読者の大半は「何それ」と思うだろう。それより「子供たちが野球をして遊んでいます」と書かれた方が、イメージはしやすい(ちなみに、ラウンダーズは野球の原型になったゲームの一つである)だが読者の年齢や知識によっては「イギリス人は野球なんかしないでしょ」と思われてしまう可能性もあったりする。

 もう一つ、問題がある。それは、登場するのがその単語だけなら、変えても影響は大きくない。だが、それに何かしら文章が続いていると、妙なことになってしまうことがあるということだ。

 C・S・ルイスの作品『ナルニア国シリーズ』の中で、エドマンドという少年が、魔女からプリンをもらって食べるシーンがある。このシーンが、子供のころの私には悩みどころだった。というのも、プリンを食べているのに、描写がプリンではないのだ。プリンを描写しているとは思えない言葉が、続いているのだ。当時の私にとって、プリンというのは、黒いカラメルの載った「カスタードプリン」だった。だから丸い箱の中にぎっしり詰まったお菓子を、エドマンドがどう考えても手づかみで食べているのが、理解できなかったのである(当時の私には解説を読む習慣がなかった)

 少し成長してから、それがプリンではなくターキッシュ・ディライトというお菓子であり、日本の子供には馴染みのないお菓子であったので「プリン」に変えられてしまったということを知ったが、これもできれば「せめてもうちょっと、描写のかぶるお菓子にできなかったのだろうか」と思ってしまう。



 こういう時、私は「注釈」をつけてくれればなと思う。私が子供の頃、手にしていた本には注釈があるものが多く、そこを読むことで、私は多くの知識を得てきた。先ほど書いたイギリスの通貨に関する知識などがそうだ。何かの役に立つのかと訊かれたら「よくわからない」としか言い様がないのだが、当時の私は、純粋に知識が増えるのが楽しかった。もともと好きな本を読んでいるのだから、そういった本に出てくるあれこれについて、深く知りたいと思うのは当然だった。だから今でも、注釈で憶えたあれこれのことを、思い返すことができる。

 だが、最近の本から「注釈」は姿を消しつつある。「注釈」があると、それが気になって読書に集中できない、ストーリーを忘れる、注釈などない方が読みやすい、そういう意見の人が増えたからだ。私としては、それが淋しい。小さい頃から馴染んでいたものが消えていくのが、淋しくてたまらない。

「注釈」は、元の言葉やその言葉の意味だけでなく、モトネタについて解説してくれることもある。注釈に書かれていたことから、別の本を手に取った経験だって多い。そんなふうに注釈に書いてあったことが、新しい扉を開いてくれることだってある。

 少なくとも、私はそう思う。


 子供の本で、子供たちが「はねつき」をして遊んでいるシーンがあった。原書を持っていないので原語は確認できていないが、なんとなく「バドミントン」ではないかという気がする。もしそうなら、新しい訳が出たら「バドミントン」になってしおうな気がする。

 これはドラマなのだが、登場する女性が「趣味はパチンコ」と言うシーンがあった。「アメリカにパチンコってあったっけ?」と引っかかったので、台詞を英語に切り替えて聞いてみると、こちらは「ボウリング」であった。これも現代なら、そのまま「ボウリング」になりそうだ。

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