オヒゲ
童顔の俺は髭が似合わないんだが、一度だけ伸ばしたことがある。
午後9時を過ぎていた。
救急患者用の入口から入ってひとけの無い病棟の廊下を一番奥にある病室に向かって歩く。
今ここで何人の人達が病気と戦ってるんだろう。
ドアを ちいさくノックして6人部屋の病室に入る。
一番手前の左側のカーテンをゆっくり開けると、彼女が ベットに腰掛けて手紙を書いていた。
「いよいよ明日だね」って言って、俺も並んでベットにすわる。
書きかけの手紙を仕舞いながら彼女が頷いた。
誰宛の手紙なのか少しだけ気になった。
テーブルの上には夏に2人でとった写真が飾ってあった。
満面の笑顔の二人がそこにいた。
「見舞いに来た人に見られると恥ずかしいよ」って俺が言うと、
「これでも一応女の子だからね」ってフクレっ面になる。
あまりにも写真のなかの自分の幸せそうな顔が照れくさかった。
「お髭伸びたね。なかなか似合うよ」って言われてまた照れくさくなる。
せめてもの願かけにと、入院が決まった日から髭を剃らずにいた。
自分に出来ることといったら、これぐらいが精一杯な気がした。
「失礼します」と白衣の男がカーテンを開けた。
明日の彼女の手術の麻酔の担当医だった。若くて少し驚いた。
「あ、服のままでいいですから・・・」とパジャマの上から 聴診器をあてる。
2、3の確認をして、すぐに白衣は出て行った。
「あなた恐い目して睨んでたよ。あれじゃあ服は脱がせれないよね」って、
彼女はおかしそうに笑った。
こんなに健康そうに笑うやつが、明日の朝、手術台にのぼるなんて信じられなかった。
いや、信じたくなかった。
次の日の午後、付き添ってくれていた友人から、無事手術がすんだと連絡が入った。
俺はバックミラーに映る髭をなでてみた。