第9話 身分違い
『あなたがどれほど大切にされていても……続けるのはきっと簡単じゃない』
その言葉が胸に突き刺さったまま、私は動けないでいた。
「優美」
河内さんが近づいてきた。
「今日はどうだった?結構頑張ってたな」
河内さんを見ることができない。
「はい……私なりにやってみました」
「続けられそうか?」
続けるということは、あの女の人とまた会うということ。
そして──河内さんの世界にいる自分が、どれほど場違いかを思い知らされること。
「続けるかは考えさせてください」
茶道どころではない。
河内さんは私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
河内さんの顔を見ると胸が苦しくなる。
「ちょっと疲れただけです」
「……もう帰ろう」
車の中で私は何も話せなかった。
あの女性の言葉が頭の中をぐるぐる回る。
『家のために結婚する運命』
『簡単には結ばれない関係』
マンションに着いて河内さんの部屋に入ると、玄関で強く抱きしめられた。
「無理させて悪かった」
「いえ……とてもいい経験になりました」
「私、着替えます」
別室で着物を脱ぎながら、鏡の中の自分を見つめた。
やっぱり私は、この世界の人間じゃない。
広い豪華なリビング。
ソファで河内さんが寛いでいる。
「ここで休んでゆっくりしよう」
河内さんがそう言った時、私の中で何かが弾けた。
「申し訳ありません。今日は自宅に帰って横になります」
「そうか……」
「着物はクリーニングに出してからお返しします」
「それはお前にあげたものだから、返さなくていい」
「こんな高そうな着物……私には勿体ないです」
河内さんの顔色が変わった。
「何言ってるんだお前」
立ち上がって私の目の前に来た。
「何があったか言え」
鋭い目つきだった。
「河内さんは社長の息子で、私は借金まみれの事務員です……」
「それが何だ」
「違いすぎるんです。身分や立場が」
河内さんは驚いた表情を浮かべた。
「今日、茶道教室であの方に言われました。河内さんは家のために結婚する運命だって」
「俺はそんなつもりは――」
「今はそうでも……」
声が震えてしまった。
「いずれ河内さんのご両親が、私みたいな女性じゃダメだって言い出したら……河内さんはどうするんですか?」
河内さんは何も答えられなかった。
「私、怖いんです。いつか捨てられるのが……」
「優美……」
「だから、今のうちに終わらせた方がいいんです」
そのまま私は河内さんの家を飛び出した。
「優美!待て!」
河内さんの声を無視して、マンションを出た。
初めての恋愛に浮かれて、現実が見えてなかった。
河内さんは副社長で、私は借金を背負った女。
「恋なんかしなきゃよかった……」
私はスマホの電源を切った。
* * *
翌朝、私は意を決して副社長室に向かった。
ノックをした。
「はい」
いつもの冷静な声。
「藤田です。お話があります」
「……入れ」
ドアを開けると、河内さんが険しい顔で立っていた。
「なんで連絡を無視した」
「スマホが壊れたんです。それより……重要なお話があります」
私は深呼吸をした。
「借金はちゃんとお金で返済させてください。なるべく早くお返しできるよう努めます」
「は……?」
河内さんは戸惑っていた。
「それと――」
私は心を鬼にした。
「今月いっぱいで、ここを退職します」
「何言ってるんだよ……」
「実家に帰ることにしました」
嘘だ。でも、これ以上ここにいたら……。
「優美」
河内さんが一歩近づいた。
「俺と関係を切るつもりか?」
関係を切りたいわけじゃない。でも――
「河内さんのためです」
「俺のため?」
「はい。私みたいな女性と付き合ってたら、河内さんにとってマイナスにしかなりません」
河内さんの表情が変わった。
怒りとも悲しみともつかない表情。
「そんなことは――」
その時、ドアがノックされた。
「副社長、社長がお呼びです」
「……わかった。今行く」
河内さんは渋々私の横を通り過ぎて行った。
私は私らしい人生を歩むんだ。
その時、目から涙が溢れた。
それを拭って、副社長室から出た。
今ならなんとか引き返せる……。
◇
それからは私たちは業務以外の会話をしなくなった。
あの次の日、河内さんに退職届を渡した後、「預かっておく」と言われたまま何も言われていない。
また会社の中はとても居心地が悪い場所になった。
そして私は、また副業を始めた。
ラウンジ嬢に戻った。
「おかえり〜!!!」
一緒に働いてた人たちが快く出迎えてくれてほっとした。
そして、早く借金を返そうと思い、土日に限らず平日も仕事を入れた。
知らない男の人に表面だけの笑顔で接客をして、適当に話を合わせる。
ここではいつもそうだ。
「さくらさん、新規のお客様の方に行って」
黒服に言われた。
その席に行くと、落ち着いた雰囲気のスーツを着た男性がいた。
「さくらと申します。よろしくお願いします」
私はその人の隣に座って適当に会話をした。
「こういうお店は、久しぶりで……。仕事帰りに、少し気分転換で来ました」
あまり慣れてないせいか、少しよそよそしい。
「お仕事、お忙しいんですか?」
「はい……旅行代理店で営業をしていて。最近は残業続きで、なかなか帰れなくて」
「営業のお仕事、大変そうですね」
「課長になったばかりで……まあ、肩書きだけで実際は部下に振り回されてばかりだけど」
思わず笑ってしまった。
彼もつられて笑った。
「さくらさんは、普段は何を?」
「昼間は事務の仕事をしています」
「事務か。今の雰囲気からはあまり想像できないな」
佐久間さんは、あまり壁を感じず、親しみやすい人だった。
その時、黒服がひっそり声をかけてきた。
「指名が入りました」
指名……?
私に指名が入ることはほぼない。
「少し席を外します」
佐久間さんに挨拶をした。
「いや、俺はもう帰るよ」
「え……」
「見送りはいらないよ。また会えるのを楽しみにしてる」
彼は優しく笑顔を浮かべて、そのまま会計をして店を出て行ってしまった。
あまり話せなかったけど、印象に残る人だった。
その後すぐに指名客の所に行ったら――
恐ろしい形相をした河内さんが、足を組んで座っていた。
ヤバい……また見つかってしまった……。




