第8話 現実
その日、仕事が終わった後、私は河内さんの家に行った。
そして河内さんが買ってくれたドレスを着てウィスキーを注いでいた。
それをじっと河内さんは眺めていた。
「なんでしょうか?」
「前から思っていたが、酒を注ぐ所作がいい。お前は茶道に向いているかもしれない」
「え!そうですかね。ラウンジの先輩に言われた通りにやっていただけですが」
河内さんはウィスキーを飲んだ。
「客にもてなすことは相手への敬意が必要だからな」
なるほど……。
「そうだ、優美に渡したいものがある」
河内さんは立ち上がって別室に行った後、大きな箱のようなものを持ってきた。
「これは何ですか?」
河内さんがそれを開けると、その中にはとても綺麗な着物が入っていた。
淡いピンク色の着物だった。
「茶道教室に行く時にそれを着ていけ」
「わー!ありがとうございます!楽しみです!」
一気にやる気が出てきた。
河内さんは嬉しそうに微笑んだ。
「出張中、ずっとお前のことを考えていた」
急に真剣な表情になった河内さん。
「会えない時間が、こんなに長く感じるとは思わなかった」
そっと私の手を取る。
「優美……」
私の心臓が早鐘を打ち始めた。
河内さんがゆっくりと距離を詰めてくる。
「会えなかった時間を埋めたい」
私はそっとソファに導かれた。
緊張して心臓が激しく動き出した。
河内さんの顔がゆっくり近づいてきて、私たちの唇が重なった。
何度も何度も。
河内さんの唇は柔らかくて、だんだんと体が熱くなってきた。
河内さんの手が私の頬を撫で、首筋に触れた。
そして河内さんの手が私の胸に触れた。
その瞬間、驚いて思わず手を掴んでしまった。
「あ……」
河内さんは我に返ったように手を止めた。
「悪かった……いきなりだったな……」
河内さんは立ち上がった。
「送っていく」
玄関の方に向かう彼の背中は寂しげで……思わず後ろから抱きしめた。
「どうした?」
「ごめんなさい。臆病で」
暫く河内さんは沈黙していた。
「焦らなくていい」
「でも!河内さんの気持ちに応えられなくて……」
「俺は待つから」
振り返った河内さんの表情は優しかった。
河内さんはゆっくり私に手を伸ばして、私をそっと抱き寄せた。
「俺のこと、好きか?」
「はい……好きです」
「じゃあ、それでいい。俺はお前を急かしたりしない」
「ありがとうございます……」
河内さんの優しさに涙が出そうになった。
その後、河内さんはタクシーを呼んでくれた。
「優美、おやすみ」
そう言って、タクシーは進んだ。
河内さんの気持ちに応えることができなくて、胸が痛んだ。
でも同時に、この人の優しさに包まれている安心感もあった。
駅でタクシーから降りて歩いていると、ふと誰かに見られている気がした。
振り返ってみても、夜の駅前に人影は見えない。
でも確かに、視線を感じた。
──少し胸がざわついた。
◇
仕事休みの日。
朝から河内さんの家に行き、動画を見ながら自分で着物を着てみた。
「いかがでしょう?」
着物姿の河内さんは首を傾け、着付けを直してくれた。
「衿はもう少し抜いたほうがいい」
ち、近い……!
衿周りや帯を整えてくれたけど、その距離感にクラクラした。
その後、茶道に必要な物を渡され、車で目的地へ。
行き先は立派なホテルだった。
「こんなところでやるんですか!?」
「ホテルに茶室があって、そこでやっている」
予想していた古民家などではなく、華やかな場に気圧される。
エレベーターを降りると、着物の女性たちが集まっていて、一斉にこちらを見た。
「河内さん!」
河内さんは女性達に取り囲まれた。
「また会えるなんて嬉しいです!」
「河内さんに直接お稽古して欲しいです!」
輪の外に立つ私は、居場所をなくして立ち尽くしていた。
その時、一人の女の人が近づいてきた。
とても美人で高そうな着物を着ていて、良家のお嬢様といった雰囲気の人だった。
「あなた、河内さんの知り合い?どういったご関係?」
これは正直に言うと角が立つパターン……?
「同じ会社の者です」
間違ってはいない。
「河内さんに直接誘って頂けるなんて、特別なご関係なのかしら……?」
そこへ――
「優美、どうした?」
河内さんが来た。
その女の人は河内さんに会釈をした。
「お久しぶりですね、河内さん」
短い挨拶が交わされ、すぐに先生らしき人が現れた。
「河内さん、今日お稽古をさせたいお嬢様はこの方?」
優しさの中に芯があるような女性だった。
「そうです。先生に教えて頂きたい」
「藤田優美です!宜しくお願いします」
私は深々とお辞儀をした。
「藤田さん、初めまして。ではまず他の方と一緒にお稽古に参加して、雰囲気を見てみて下さい」
初茶道デビューに気が引き締まった。
* * *
お稽古が始まり、生徒さん達が次々茶室に入っていく中、見様見真似で私も入ると、さっきの女の人にクスッと笑われた。
「畳の縁は歩いてはいけないのよ」
恥ずかしい……!!
周りの人達が当たり前のようにするお作法が全くわからず、あたふたしてるのを見て、河内さんは顔を隠して笑っていた。
「藤田さん、最初は皆わからなくて当然だから、気にしないでいいのよ」
先生の柔らかな声が救いだった。
私は曲がりなりにもなんとか最後までやりきった。
* * *
一通りお稽古が終わり、ロビーで深呼吸をしていた。
帯が苦しい……!
すると、さきほどの女性がまた近づいてきた。
なんとなく身構えてしまう。
「藤田さん……だったかしら。河内さんとはかなり親密な仲なのね。見ててなんとなくわかったわ」
その人は少し寂しそうな表情を浮かべた。
「ご存じかしら。河内さんは社長のご子息。あの家では代々、結婚も“家のため”に決められるの」
「え……?」
河内さんが社長の息子なのは知っている。
でもそのことは知らなかった。
「私自身もそう。好きでもない人と結婚する運命なの。……だからこそ思うの。河内さんも、いずれは家のためにそうなるのかもしれない」
嫌な汗が体をつたった。
「あなたがどれほど大切にされていても……続けるのはきっと簡単じゃない。覚悟しておいた方がいいわ。……簡単には結ばれない関係だって」
そう言って、静かに去って行った。
世襲、政略結婚――。
やっと河内さんと向き合おうとしたのに、現実を突きつけられた私は、それを受け止めきれなかった。




