第6話 恋
河内さんのおかげで田中さんの一件がようやく落ち着いて、重荷が少し軽くなった。
それでも心の奥には、別の不安が残っていた。
このまま河内さんに守られて、借金まで肩代わりされてしまったら、私は完全にこの人に依存してしまう。
それだけは避けたかった。
私は朝、副社長室に入る前に深呼吸をした。
よし!
「副社長!おはようございます!」
河内さんはパソコンに向かってメールを打っていた。
「おはよう。元気だな」
仕事モードの河内さん。
「河内さん、ご相談があります」
「なんだ?」
「やっぱり、借金は自分で返済したいです。ご好意は本当に嬉しいんですけど……お気持ちだけ、受け取らせてください」
勇気を振り絞って言葉にした瞬間、河内さんの気持ちを考えると胸が苦しくなった。
自分でも、それが強がりに過ぎないことはわかっていた。
「……わかった」
河内さんは立ち上がった。
「ちょっと用事があるから出る。あとは宜しく」
バタンと部屋のドアが閉まった。
え……それだけ?
予想外の反応に戸惑った。
怒らせてしまったのでは……そんな不安がよぎる。
けれど、ただ守られるだけなのは嫌だった。
とにかく今与えられた仕事をこなしつつ、今後どう返済していくか考えなければ――そう思っていた。
* * *
夕方、河内さんが戻ってきた。
表情が読めない。
「お……お疲れ様です」
なんとなく気まずい空気が流れる。
「あの……河内さん、気分を害してしまっていたら申し訳ありません」
河内さんはデスクに座り、鞄から封筒を取り出した。
厚い紙の感触と、朱色の印がやけに目に刺さる。
「これ」
机に置かれた書類に視線が釘付けになった。
「え?これは……?」
「債権譲渡契約書だ」
現実を突きつけるその言葉に息が詰まる。
「君の借金は、俺のものになった」
「えっ……!?」
思わず椅子から立ち上がってしまった。
「そんな……私、何も同意してません!」
「債務者の同意は必要ない。法律でそうなっている」
それってつまり――。
「藤田、これからは俺に借金を返せばいい」
「返すって……給与から天引きですか……?」
河内さんは一歩、私に近づいた。
その瞳は、深い謎を秘めていた。
「金じゃなくていい。時間が欲しい」
「時間……?」
「俺とお前が一緒にいる時間」
河内さんはまるで、私をすでに手に入れているかのような表情だった。
「あの……返済期間はどのくらいになりますか……?」
彼はわずかに口元を緩め、謎めいた笑みを浮かべた。
「お前次第だ」
「え……私次第……?」
「そうだ。終わりにするのも、続けるのも――決めるのはお前だ」
意味深な言葉が胸の奥で反響する。
私次第って、どういうこと?
なぜか、その笑みに吸い込まれそうだった。
◇
私は仕事が終わった後、すぐに実家に電話をかけた。そして借金の債権者が変わったことを伝えた。
副社長と言うのは流石に両親を動揺させると思って『上司』と濁した。
「その人は信頼できる人なのか?直接お話しできるか?」
父の不安そうな声。
なんて言えばいいんだろう……。
そばには河内さんがいる。
私は河内さんにドライブに一緒に行くように言われて、今は夜景が見える駐車場にいた。
「河内さん……父が話したいと言ってるんですが」
河内さんは電話をかわった。
「初めまして、藤田さんの上司の河内と申します。藤田さんが借金の返済に困っていると相談を受けたので、私がこの様な形にさせて頂きました。期限などは設けておりませんのでご安心ください」
別人のように穏やかで誠実な男性を演じている河内さん。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません……」
父の言葉に胸が苦しくなった。
「いえ、藤田さんには仕事でサポートして頂いてとても助かってるので気にしないで下さい」
そのあとまた電話をかわった。
「お父さん、そういう事だから、安心して」
「優美、大丈夫か?その人は信頼できるのか?」
信頼……
でも私は河内さんに助けられている。
「うん……大丈夫だよ。私河内さんのために仕事頑張るから。お父さんもお母さんも心配しないで」
そして電話を切った。
「河内さんありがとうございます。丁寧に説明して頂き……」
河内さんは何故か不満そうだった。
「どうしたんですか?」
「俺と付き合ってると言えばいい」
「え!?何でですか?」
私の顔をじっと見ている河内さん。
「あの時の返事をまだもらってない」
……そうだ、付き合ってほしいと言われて、返事はいつでもいいと言われたから、そのまま放置してしまっていた。
「あの……そのお返事の前にお伺いしたいのですが、河内さんは一目惚れというだけで私にここまでしてくれるのはなぜなんですか……?」
「……初めて会った時、無理をしてるのがわかった」
「……わかっちゃったんですね」
男の人と付き合った事がない、お酒も飲めない……
かなり無理はしていた。
でもそんな事、誰かに言われた事はなかった。
「俺も結構無理して今の仕事やってるから」
「え……?」
河内さんの事について私はあまり知らなかった。
私は………
この人の事を知りたいと思った。
「私、河内さんとお付き合いします。」
「……本当か?」
河内さんは驚いた表情をしている。
「ただ……」
「ただ?」
「私は男の人と付き合うのが初めてなので、正直怖いです」
河内さんは仕事では信頼できる人だ。
だけど、男女の関係となると話は別だ。
「わかった。お前が嫌な事はしない」
河内さんは真剣な表情だった。
「俺たちは今から恋人同士。あの約束は、なくしていいか?」
あの約束……接待以外の事はしないと約束した。
でも、恋人になったらもう接待ではない。
「安心しろ。俺はお前の事を大切にする」
その時、河内さんは私をそっと抱き寄せた。
怖い……だけど、安心する。
「これからは恋人としても、俺といろ」
胸が高鳴る。
目があった瞬間、唇が触れそうになった。
あの時はびっくりして逃げてしまったけど、私は逃げなかった。
私は恋に落ちたのかもしれない……




