第5話 信頼
秘書業務をこなすようになって、だんだんと仕事に慣れてきた矢先、前の部署の田中さんとエレベーターでばったり会った。
「藤田さん久しぶり。新しい仕事はどう?」
田中さんは私がラウンジで働いている証拠写真を持っていて、さらにそれを秘密にする代わりに付き合おうと言ってきた。
それに返事をしないまま、私は異動した。
「新しい仕事はなんとか頑張ってます……」
この人は黙っててくれるのだろうか。
「藤田さんさ、もしかして副社長と関係持ってる?」
「え!?」
田中さんは私の心を見透かしたような目をしていた。
「いえ、全く関係ないです」
「前うちの部署に来た事もあったしね……。今藤田さんがいるのは15階。偶然にしてはねぇ」
どうしよう……。
エレベーターは一階に到着した。
「こっそりラウンジで働いてて、副社長に気に入られて、藤田さんって見かけによらず……だね」
田中さんはそのまま行ってしまった。
私はまた危機に立たされた。
* * *
次の日は田中さんに言われた事が気になって、なかなか仕事に集中できないでいた。
それに気が付いたのか、河内さんに声をかけられた。
「どうした?なにかあったのか?」
心配してくれている。
「いえ……ちょっと具合が悪くて」
「じゃあ今日は帰っていい」
「あ、大丈夫です!たぶんすぐ落ち着きます!」
その時、河内さんは真剣な顔で私を見た。
「正直に言え。何があったか」
河内さんにも丸わかりだ。
「実は……」
私は河内さんに話した。
「ラウンジで働いていた事を秘密にする条件に付き合ってほしい?しかも俺との関係まで見抜かれているのか……厄介なやつだ」
「あの人が証拠写真を持っている限り、私は仕事に集中できませんし、河内さんにも迷惑がかかります」
ここまでしてもらったけど、やっぱりダメだ……!
「藤田、なるべくそいつに近づくな。最悪周りにバレたとしても、副業はしてないと貫け。俺との関係も、仕事以外何もないとはっきり言え」
「はい……」
ここにいるならそうするしかない。
「河内さん、もし今の状況が公になったら、河内さんも危険になるんですよ?私といるメリットなんてありませんよ」
デメリットしかない。
「経営者としてお前を特別扱いするのは間違っている。ただ……お前は嫌がらせを受けていて、弱みを握られて関係を迫られている。それは見過ごせないだろ」
河内さんの優しさが心にしみる。
その後は気持ちを切り替えて仕事に集中した。
そして帰りに、河内さんに車に乗るように言われた。
「誰かに見られたらまずいですよ……」
「じゃあ、時間差で俺の部屋に来い」
「え?河内さんの部屋に?」
「ああ」
河内さんはそのまま行ってしまった。
「どうしよう……」
ただ、河内さんの私への計らいを無下にはできなかった。
私は暫くしてから彼の住んでるマンションに向かった。
インターホンを押すと、河内さんがドアを開いた。
「入れ」
そのまま部屋に上がった時、河内さんが私の方に手をのばした。
まさか……前もうしないと言ったのに。
私は身構えてしまった。
でも河内さんの手は私に触れなかった。
「すまない……約束を破りそうになった」
私はほっとしたけど、なぜか少し心が痛んだ。
「俺が守る。何があっても。だから辞めるな」
切実な思いが胸に響いて、河内さんの想いが伝わる。
私のこの人へのこの気持ちはなんなんだろう……。
一緒にいると安心したり、苦しくなったり、心が震えたり。
「河内さん、お酒お注ぎしましょうか?前買っていただいたドレスもこのままだと勿体ないですし……」
「ああ……宜しく頼む」
私はまた嬢に戻る。彼の前だけで。
それが今、私ができる精一杯だった。
* * *
数日後、また田中さんと会社で会ってしまった。
彼は妖しい笑みを浮かべる。
「副社長とはどう?」
「何もありません」
田中さんはスマホを出した。
「これ、どうしようかな……」
私の映っている写真……。
絶体絶命だ――。
「これ、どうしようかな……」
田中さんの執拗な行動に恐怖しかなかった。
「この写真のこと、もう一度考え直してもらおうかな」
彼のスマホの画面には、ラウンジで接客している私が写っている写真。
「やっぱり藤田さんだよね。間違いない」
「違います……人違いです」
「藤田さん、嘘はよくないよ。俺だって確信があるから言ってるんだ」
田中さんは距離を詰めてきた。
「今度こそはっきりした返事をもらいたい。俺と付き合ってくれるなら、この写真のことは忘れる」
「でも、もし断るなら……」
田中さんの目に悪意が宿った。
「人事部に相談するかもしれないし、同僚にも話すかもしれない。副業を隠していた件も含めてね」
私は震えそうになった。
「考える時間をください……」
「今日の夕方までに返事をもらう。それが最後だ」
田中さんはそう言って去ろうとした。
その時――
「おい」
冷たい声が響いた。
振り返ると、河内さんが立っていた。
いつの間に……?
「副社長……」
田中さんの顔が青ざめた。
「藤田、席を外してくれ」
河内さんの声に有無を言わさぬ迫力があった。
「はい……」
私は慌ててその場を離れた。
少し離れた場所から、二人の会話を聞いていた。
「会話は聞かせてもらった」
河内さんの声は低く、静かだった。
田中さんは言葉に詰まった。
「それは脅迫にならないか?」
河内さんの一言に、田中さんの顔が真っ青になった。
「いや、脅迫なんて……そんなつもりは……」
「でも河内副社長、公私混同では?藤田さんを特別扱いするのは……」
田中さんが必死に反撃を試みた。
河内さんは冷笑した。
「それはお前のことだ」
「え?」
「弱みを握って関係を迫っている」
田中さんは言葉に詰まった。
「藤田はお前やこの部署の社員からの嫌がらせで悩んでいた。上の立場として適切な配置に変更しただけだ」
「嫌がらせ……?そんなつもりは……」
「仕事を押し付ける、残業を強要する、今回の件も含めて十分嫌がらせだろう」
河内さんの指摘は的確だった。
「お前の行動は職場環境を悪化させる重大な問題行為だ。人事に報告するのはこちらの方かもしれないな」
田中さんは完全に立場を失った。
「も、申し訳ありませんでした……」
「藤田に二度と近づくな。これは命令だ」
河内さんの威圧感に、田中さんは小さく頷いた。
「はい……失礼します……」
田中さんは逃げるように去って行った。
そして、河内さんが私の方に歩いてきた。
「大丈夫か?」
「はい……ありがとうございました」
胸を撫で下ろしたと同時に、河内さんのプライベートとのギャップに驚くばかりだった。
「怖かったです」
「ああ、あんな迫られ方したらな」
「いえ、河内さんが……」
「……あのくらいハッキリ言わないとダメだろ」
確かに……。
「これでもう心配ないな」
──河内さんに救われた。
「本当にありがとうございます」
河内さんは少し微笑んだ。
「当然のことをしただけだ」
強引な部分もあるけど、私のことを守ってくれた。
それがとても嬉しかった。
……なのに胸の奥はざわめいて、落ち着かなかった。
安心したはずなのに、なぜか河内さんの横顔ばかりが頭から離れない。




