第16話 守りたい
社長室に呼ばれたのは、北海道出張の数日前だった。
重い扉を開けると、父はデスクの上の“何か”を眺めている。
机の上に一枚の写真が置かれている。
ラウンジで優美と向かい合って座る俺の姿。
この写真を撮ったのは……撮らせたのはこの人だ。
確信した。
「これはどういうことだ」
父の低い声に、俺は迷わず答えた。
「……真剣に付き合っています」
「真剣に、だと?」
父の眉がピクリと動く。
「借金を抱え、夜の店で働く女だぞ。お前はそれを承知で付き合っているのか」
「承知しています」
父の表情がさらに険しくなった。
「お前は副社長だ。そして将来この会社を背負う立場にある。そんな女と結婚などとなれば、株主や取引先にどう思われるか分からないのか」
結婚……。
その言葉に胸がざわついた。
まだ優美とそこまで話していない。
まだ俺たちはやっと恋人として歩み始めたばかりのようなものだ。
「よく考えろ。会社のことを第一に考えるのがお前の立場だ」
それ以上何も言えなかった。
父の前では、いつも子供の頃に戻ってしまう。
悔しさだけが胸に残った。
* * *
北海道出張。
予想外の大雪で、古い温泉旅館に泊まることになった。
優美と二人きりの部屋。
普通なら嬉しいはずなのに、父の言葉が頭から離れない。
『よく考えろ』
考えている。
ずっと考えている。
でも答えは変わらない。
俺にとって一番大切なのは優美だ。
会社も、跡継ぎという立場も、優美の前では色褪せて見える。
いっそ全部捨てて、優美と二人でどこか遠くに……。
気づけば口に出していた。
「優美、二人でどこかで暮らさないか」
優美の驚いた顔を見て、我に返る。
こんなことを言ってしまうとは。
「……冗談だ」
慌ててごまかした。
冗談、じゃない。
でも今の俺には、それが精一杯だった。
* * *
出張から戻った数日後。
俺が会議で外出している間に、優美が父に呼ばれたと父の秘書から聞いた。
血の気が引いた。
あの人と一人で戦わせてしまった。
俺は何をやっているんだ。
守ると言ったのに。
その日の夕方、社長室を訪れた。
「父さん、優美に何を言ったんですか」
「あの女のことか。なかなか面白い女だったな」
面白い?
「彼女はこう言った。『副社長の将来を決めるのは彼自身です。そして私の将来も私が決めます』とな」
その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなった。
俺が父の前で言えなかった言葉を、優美は迷わず口にした。
一人で父と向き合って。
「強くなったな、優美……」
心の中でつぶやいた。
なら俺も、もう迷わない。
俺は父を見据えて言った。
「父さん、俺は彼女との関係を終わらせるつもりはないです」
「何だと?」
「会社がどうなろうと、俺の気持ちは変わりません」
父の顔が怒りで歪んだ。
もう後戻りはできない。
俺が守ると決めた。
この関係を、誰にも絶対に壊させはしない。
◇
「すぐに来てくれ。話がある」
その電話を受けて、私は急いで河内さんのマンションに向かった。
マンションの入り口に着くと、既に河内さんが外で待っていた。
「お疲れ様です」
河内さんに何を言われるかが不安だった。
でも私はもう心を決めていた。
何を言われても、逃げないと。
* * *
部屋に入った後、私たちはソファに座った。
しばらくお互い何も話せないでいた。
重い沈黙が流れる。
「ごめん」
突然出てきた河内さんの言葉に驚いた。
「ちゃんと守れなくて」
その声は震えていた。
「いえ……」
私は河内さんの目を見つめた。
「私たちが一緒にいる限り、避けられない道だったんですよ」
「……そうだな」
「でも私は逃げませんでした。ちゃんと言えました」
河内さんの表情が少しずつ変わっていく。
「優美が何を言ったかは、父から直接聞いた」
「そうなんですね」
「ありがとう」
河内さんは今まで見たことがないほど穏やかな表情をしていた。
まるで重い荷物を下ろしたみたいに。
「でも、もう会社にはいられないかもしれません」
「例え何が起こったとしても、この関係は守り抜く。それは父にも言った」
河内さんの声に迷いはなかった。
「嬉しいです。でも河内さんがどうなるか心配で……」
「俺はもう何も心配してない」
河内さんが私の手を握った。
「心配だったのは、優美の気持ちだった」
「でも優美はちゃんとあの人に立ち向かった。俺はそれだけで前に進める」
その言葉に胸が熱くなった。
「どうなるかわかりませんが、借金はちゃんと返します」
「今、そんな話をするな……」
河内さんが苦笑いを浮かべた。
「すみません。ずっとそれが私の目標で……」
河内さんは立ち上がって、私を優しく、でも強く抱きしめた。
「金を稼いでる暇があるなら、俺のそばにいろ」
「……気持ちが揺らぎます」
「もう金のことはどうでもいい。二人の時間の方がはるかに大切だ」
河内さんは私をまっすぐに見つめた。
「真剣に言う。金はいらない。だから、ただ俺のそばにいろ」
「お前は俺の専属だ。誰にも渡さない」
専属……。
あの日、ラウンジで出会った次の日に言われた言葉。
あの時から、すべてが始まった。
「私はもう、あなた専属ですよ」
私たちの想いは、この瞬間同じものになった。
「私はあなたを愛していて、あなたに愛されていれば、それでいいです」
もう余計な言葉はいらない。
何もかも隔てるものを取り払って、ただお互いの存在を確かめた。
「優美がいれば、何もいらない」
とても暖かい温もりに包まれて、胸が震えた。
お互い、もう二人しか見えない。
「河内さん、全部私にください」
「ああ。全部やる。俺の全てを」
その言葉が一時の迷いだったとしても、私は許せる。
たとえどうなっても、私は後悔しない。
この人と一緒なら――。
* * *
朝がきて、柔らかく部屋の中を包み込んでいた。
隣では愛する人が無防備な顔で寝ている。
なんて幸せな瞬間なんだろう。
私は身だしなみを整えた。
そして静かに玄関に向かった。
マンションから出た後、河内さんの連絡先を消した。
そして、早朝の静かな世界に吸い込まれていった。




