第11話 安心と暗雲
河内さんのマンションに着いた。
今までで一番足取りが重かった。
今日、これからのことをハッキリさせないといけない。
お互いそう思ってるからだ。
マンションの中に入り、河内さんの部屋のインターホンを鳴らした。
ドアが開くと、険しい顔の河内さんが立っていた。
私たちはその後リビングに立ち尽くしていた。
私は沈黙に耐えられなくなった。
「河内さん、お金で解決するのを、やめましょう」
河内さんはずっと窓の外を見ている。
「じゃあ……払い終わるまで俺は耐えなきゃいけないのか?」
その瞳が私を捉えた。
「好きな女が他の男と馴れ合ってるのを、見守るのか?」
胸が痛んだ。
「……私は自分で返したいんです。あなたのお金じゃなく、私の足で。今はまだ出戻りの身なので、ある程度したら仕事を変えます」
「もういい加減にしろよ」
河内さんの怒りが伝わった。
爪が食い込むほど手を握りしめている。
「……金はいらない。お前の心が欲しい」
息が止まった。
そんな言葉が出てくるとは思っていなかった。
自信がなかったのは、河内さんの方だったんだ。
不安だったんだ。私がどこかに行くのが。
「河内さん。借金は自分で稼いだお金で返します。それでも、あなたへの想いは変わりません」
「……信じていいのか」
「信じてください!何度でも言います。好きです。あなたが不器用に私を守ろうとするところも」
次の瞬間、きつく抱きしめられた。
「優美……俺は、お前に嫌われるのが怖い。金しか差し出せない男だと、思われるのが」
河内さんは微かに震えていた。
「お金だけじゃないです。ちゃんと会社でも私を守ってくれたじゃないですか」
私はそっと優しく河内さんにキスをした。
それに応えるかのように河内さんも深く返してくれた。
重ねるたび、彼の震えが少しずつ静まっていくのがわかる。
河内さんの手が私の頬を包み、もう一度キスをした。
今度は深く、長く。
「優美……」
名前を呼ぶ声が震えている。
私も震えていた。
河内さんの腕が強くなった。
「そばにいてくれ」
真っ直ぐで切実な想いが込められた瞳。
「はい……」
答えた瞬間、躊躇は消えた。
彼の温もりが私を包む――
今まで怖かった全てが、愛おしさに変わっていく。
二人の鼓動と熱が重なり合って、私たちは本当の意味で一つになった。
河内さんの腕の中で、初めて本当の安心を感じた。
「……やっと安心できた気がする」
河内さんの声が穏やかだった。
「私もです」
意地を張り合って、なかなか素直になれなかった。
「ずっと逃げていました。傷つくのが怖くて。……でもそれが河内さんを傷つけていたんですね」
二人の手が優しく絡まる。
「もう逃げるな」
「はい……」
暫く静かな時間が流れた。
河内さんが私の髪を撫でながら、ぽつりと言った。
「でも……お前があそこにいる間は心配だ」
「ラウンジのことですか?」
「ああ。やっぱり専属にしたい」
私は少し笑ってしまった。
「結局そこに戻るんですね」
「客として正当に指名してるんだが?」
河内さんは割と本気だ。
「まあ……河内さんがそれで安心できるなら」
もうこの人の不安も理解できる。
「そうだ、茶道続けようと思うんです」
「急にどうした?」
「あの時すごく恥をかいて……基本くらいはできるようになりたくて」
河内さんは嬉しそうに微笑んだ。
「花嫁修業にはいいかもな」
その言葉に、私の顔が一気に熱くなった。
「は、花嫁って……」
恥ずかしくて顔を覆ってしまった。
「そろそろ帰らないと……」
「終電もうないだろ」
その日は泊まることにした。
* * *
──翌朝
私たちは時間をずらして出勤した。
いつも通りに仕事をしていると、突然河内さんに呼ばれた。
私が副社長室に行くと、河内さんがデスクで深刻な表情をしていた。
河内さんのデスクの上には、私と河内さんがラウンジで会話をしている瞬間が映っている写真が置かれていた。
顔ははっきり写っていないけれど、分かる人には分かってしまう。
「……誰がこれを」
もう終わりだ……こんなものを会社の人達に見られていたら……。
私は震えていた。
河内さんは写真を机に置いたまま、低く言った。
「送り主は不明だ。だが、まだ広まってはいない」
その言葉に少し救われるはずなのに、胸は苦しかった。
「もし広まったら大変なことになります……」
「その時は俺がお前を守る」
私だけ守られても意味がない!
「河内さん、お願いです。もうラウンジには来ないでください」
河内さんは不服そうな顔をしている。
「私たちの今後のためです。これ以上目立ったら、本当に取り返しがつかなくなります」
「わかってる。……だが辛い」
なんとか河内さんを元気付けないと。
「心は、ずっとあなたのものですから!」
その瞬間、彼の腕に強く抱き寄せられた。
「心だけじゃ足りない。体も俺のものだ」
ふと昨日の夜のことが頭をよぎった。
一気に恥ずかしさでいっぱいになった。
河内さんが距離を縮めてきた。
「河内さん……ここは……会社ですよ?」
全く表情が変わらなかった。
「知ってる。そんなことはどうでもいい」
どうでもよくない!
「こんなことしてるの、また証拠撮られたらどうするんですか!?」
「そんなことする奴は始末してやる」
冗談だろうけど、冗談に聞こえない。
とうとう口を塞がれてしまい、抵抗を試みたものの、思考を溶かされ……。
まるで今まで耐えていたものが堰を切って溢れ出したかのような、河内さんの欲望に飲み込まれてしまった――。
「体も俺専属だな」
鬼畜……!
「大切にするって言ったのに」
その言葉で我に返った河内さんは私を抱きしめた。
「嫌な思いをさせて悪かった。ただ……あそこでまた知らない男に優美が接客する姿を想像すると、止まらなくなった」
私があそこで働いてることも、ここで働いてることも河内さんにデメリットしかない……。
「私がこの会社を辞めれば、あなたに迷惑はかかりません」
「嬢を辞めろよ……」
「わかってます、来月には辞めます。……ただ、借金を早く返したいんです」
「だから金はもういらないって言ってるんだよ」
どうしよう、心が折れそうになる。
自分で返したいのに、そのせいでこの人を苦しめてしまう。
「優美を誰にも触れさせたくない。初めて会った時からずっとそう思ってる。俺のわがままなのはわかってる。俺を好きなら、今すぐあそこを辞めてくれ」
──無責任なのはわかってる。
でも、私はこの人をこのままにしておけない。
「わかりました……。お店に今日電話します」
「ごめん。ありがとう」
優しく触れる唇が、私達の心を深く結びつけた。
未来はまだ見えない。
でも今だけは、この人の全てを受け止めると決めた。




