第1話 聖域への誘い
「心置きのないように、いまできることはやろう」
先日、フィン・ラルセンは義務教育課程を終了した。いまは進学までの待機期間にあたる。
大学課程が始まれば、まとまった時間は取りにくくなる。
いまの時間が貴重なのもあるが、こう考える理由は他にもあった。
――この世界は常に変容の最中にある。
数百年より前に始まった「パラダイム・ドリフト」という現象。
それは世界の物理現象が長い年月をかけて変容する、というもので……。
その時を境にテクノロジーの進展は望めなくなり、それから人類は緩やかな衰退の道を歩んでいる。
すべてが失われたわけでは無い。
それでもかつての精緻な技術は再現する術もなく。
人々はまるで砂の楼閣が崩れていくように、かつての繁栄の象徴が失われていくのを眺めているほか無いのだった。
それはフィンにとってもやはり同じことだが。
それでも彼は、今日の人々が忘れてしまった「並外れた行動力」を有していた。
いまや世界の大半の人々は、規範に則った行動、紡がれた「伝統」に従って生活している。
しかしフィンは、同級生からも「マーベリック」とあだ名されるように。この時代には珍しく「レールに乗っているだけでは満足できない」気性を秘めていた。
フィンは、新緑に彩られた山間の土地、に来ていた。
目の前は「境」で、金属製の柵が先に進むのを阻んでいる。
人々は普段、自らの生活域を限定して生活していて。
小さい頃には「怖いお化け<バッダー・ウォーカー>が出るから柵から出ては駄目よ」と聞かされたものだが。
実のところそれは、人々の生活と自然界のバランスをとるための知恵だということ。
……そんな種明かしも含めて寓話は継承される。
通ってきた山道は長らく来訪者も無く多少荒れてはいたが、柵には扉も設けられており、その扉も小型のかんぬきで閉じられているだけだ。
少なかれ、通行することは想定されているようだった。
フィンが扉を押し開けて中に入ろうとすると……背後から声が挙がる。
「ちょっと待ちなさいよ!」
フィンが振り向くと。そこには長らく見知った顔があった。
「やあ、ゾーイ」
「やあじゃなくて……なにをしようとしてるのよ、フィン!」
ゾーイはライディング・ハビット風の衣服に身をつつみ、背筋を伸ばし腰に手をあてながら、フィンを見据えていた。
そういえばゾーイの邸宅はこの辺りにあった。山道に入るところを見咎められたのだろうか。
「……冒険、かな?」
「ちょっと『マーベリック』! あなた、いくつになったの!? ……それにこの辺りは家の領内で、その先は聖域よ! 『人材考課』にも響く案件だわ!」
フィンはその物言いを聞き、吹き出しそうになるのを手で覆い噛み殺す。
こうした二人のやりとりは、幼少期から続くものだ。
毛並みのいいゾーイの家は、とりわけ伝統を重んじており……なかでもゾーイは輪を掛けて染まっている節がある。
「人材考課」など権威を理由とするのにも、ゾーイの生真面目な性格がよく表れていた。
そしてフィンは、そんなゾーイの性格をも熟知している。
「……でも、ゾーイ? 君が黙ってくれていたら……問題ないんじゃないかな?」
フィンは、人差し指を口の前に立て、軽くウィンクのサービスもつけて、ゾーイに提案をする。
「ま……! そんなことは許されないわよ!」
もうひと押しかな?
「ゾーイ、君と僕との付き合いは長い。信頼関係も築けていると思ってる。僕たちの間で『秘密』のひとつくらい有っても、それは自然なことだと思うんだ。それに、君もこの先に何があるか……興味はない?」
声高に話していたゾーイの顔は紅潮して、自身を真っ直ぐに見つめるフィンに正対するのが苦しくなったのか。
眼をそらしながら……つぶやくように言い訳のように口ごもる。
「ま……まあ……、あなたの事だから何言っても聞かないだろうし!? 私も家のものとして管理の責任があるから……。ついて行くわよ!」