テータテートのこちらから。
修学旅行最終日。
足が冷えて起きた。
布団から這い出る。
不快感をぶつけるように、冷気が漂う窓の辺りをジッと睨んで、靴下をはく。
昨晩遅くまで騒いでいたルームメイトたちは溶けたようにぐっすりで、時間が止まったように押し黙った空間に、自分の息遣いだけが聞こえる。
冷えた枕の下から腕時計を救出して、側面のボタンを押す。
静寂の中でピッと鳴った元気な音に驚きつつ、眩しい蛍光の緑をバックに動く時間表示に、寝起きの頭が嫌な刺激に襲われた。
もう一度、部屋を見渡す。
まだ誰も起きていない。
まだ外も暗い。
私はまた布団に潜りこもうとした。
けれど、ほんの一瞬のうちに、布団は私の温もりを手離していた。
そこにはあるのは、ただ冷たい布。
昨晩はじめて触れ合ったときと同じ、見知らぬ顔した布。
なんだか居心地が悪くて、部屋を出た。
†
ポケットの中の小銭で遊びながら自販機を目指す。
部屋でお茶を淹れることもできたが、今は蜂蜜レモンの気分だ。
雨唯雨唯が好んで飲んでいるアレ。
雨唯は昨日の夕食後にも飲んでいた。
アレは確かに美味しい。
あの喉に張り付くような甘さ、全身を巡るような温かさが恋しい。
そんな浮かれた言葉で眠い頭を起こしていると、エントランスホールから人の声が聞こえてきた。
見ると、先生方がまだ暗い海を眺めながら談笑している。
早朝にいつもと変わらない恰好で快活に振る舞う先生方を見て、だらしなく歪んだジャージの襟を整えた。
社会人の身の持ち方というのか自律というのか、こういった姿を見ると、はたして自分はどうだろうかと思う。
先生方は眠いとか寒いとかの不満を抑え込んで、生徒の前では先生としての姿に徹しているのだろう。
とても私にはできないことだ。
過度に悲観的になる程のことではないと慰める自尊心の防御機構と、意識改革を謳う理性勢力の戦いが始まる。
こういうときにどちらに耳を傾けるべきか、私は知らない。
愚にもつかないと切り捨てることは、するべきではないと思う。
けれど、こんな早朝に難しい考え事を抱えていたくはない。
だから私は、今の私のための解答を出す。
少しずつ成長していけば良いのだと、何度目か分からない言い訳で緩い納得をして落ち着いたところで、こちらに気づいた先生方に会釈をした。
「おはよう!もうすぐ日の出だよ」
身振りだけで挨拶を完遂できてコスパが良い。
そんなことを考えていた矢先に言葉を投げかけられた。
邪な態度を見透かされた気分だ。
「はぁい!おはようございます」
焦って変な発声の返事をした私を特に気にかけることなく、先生方は元の会話に戻った。
私はなんだか一気に疲れてしまい、自販機へ急ぎ目当ての蜂蜜レモンを買った。
一口飲んで、その期待通りのパフォーマンスに笑顔がこぼれた。
喉に残ったベトつく甘さとペットボトルを持つ手の熱さは、まさに欲していたそのものだった。
こんなに嬉しいものなのか、これこそ真にコスパが良い。いや、ホテル価格で普段よりは割高だけど。
そんなことを思いながら、幸せに満ちた心地で近くの椅子に座った。
だんだんと明るくなってきた海の方に目をやる。
このホテルの醍醐味。
だだっ広いガラス張りのエントランスホールから見える海原と、そこにのぼる太陽。
「おおぉ」
遠い水平線から顔を出したばかりの太陽が、砂浜や波に色と輪郭を与えていくのを見て、思わず声が漏れた。
水面がチラチラと光り、ウミネコが待ちわびていたように飛びまわる。
手元を見れば、ペットボトルを貫く光が蜂蜜レモンのトロンとした形をなぞる。
あまりの美しさに、ただ興奮する。
とても良いものを目の当たりにしている。
そんな幸福感を抱きながら全身で深呼吸をした。
スーッと抜ける微かな甘い香りが嬉しくて、もう一度息を吸って、吐いた。
「おはよ。ご機嫌だね」
急に意識に飛び込んできた声に驚き、あまりに夢中になっていた自分に気づいて、恥ずかしい気持ちで声のする方を向いた。
雨唯だ。
「日の出、綺麗だね」
雨唯はそう言って私の真似をするように体を伸ばして笑った。
長く上向きのまつ毛が光を受けてキラキラとする。
「おはよう」
「葵にしては珍しいくらい早起きじゃん」
「寒くて目が覚めちゃった」
「私も同じ!あ、それ一口ちょうだい」
顔の前で両手を合わせて、小さくおねだりのポーズをとる雨唯。
澄んだ瞳で無垢なフリをしているけれど、その実「当然くれるよね?」という強めの要求を言外に匂わせている。
こうなったら雨唯は折れない。
私は折りはしないけれど。
「もちろん。どうぞ」
「やったー!信じてたよ、葵」
信頼に裏打ちされた余裕のおねだりと得意げな表情を披露した雨唯。
戦利品を誇るようにグイッと一口、かなりの量を飲んだ。
「ん〜!やっぱり美味しい。ありがと」
雨唯は跳ねるような調子でお礼を言って、軽くなったペットボトルを私に返して、私の隣にストンと座った。
すると如何にも気分が良いという表情で海を見つめ、深呼吸をして、黙ってしまった。
雨唯は沈黙を苦にしない人間だ。
別段沈黙が好きだということでもないが、こうやって急に静かになっても気にしない。
ただ、相手が沈黙を苦手とする場合、その人の素ぶりや必死に捻り出す言葉に息苦しさを感じるらしい。
私はこの静かな時間に対するスタンスにおいて雨唯と何一つ違うものが無く、だから雨唯とのこういう時間は心地が良い。
「いま見えてる景色も十分に綺麗だけどさ、ガラス邪魔だね。外してほしい。そしたらもっと綺麗」
こういう突飛な発言も、無理やり形にした言葉ではなく、本心で言っているのだと分かる。
そんな説得力のある楽しげな声と表情をしている。
「確かにちょっと邪魔かも。前のほう行こうか」
「いいね!」
雨唯の元気な返事を合図に私たちは立ち上がり、海の方へと歩き出した。
歩を進めるたび、海がぐんと近づいてくる。
視界いっぱいに広がる景色は、やはり先ほどとは別物だった。
より眩しく、より寒い。
けれど、その源である目の前の自然は、沁み入るような美しさを誇っている。
「おぉ、すっごい綺麗。これ、すごいよ」
雨唯は子どもがするようにガラスに額をつけている。
感嘆のため息で曇ってしまったガラスを忙しく拭く雨唯を見て、嬉しくなった。
「雨唯、早起きして良かったね」
「うん。ほんとうに」
雨唯はかなり圧倒されているようで、ほとんど吐息のような弱い声で応えた。
雨唯がこんなにも気が抜けた綻んだ顔をするのはいつ以来だろうか。
記憶がパッと浮かばないほど久しぶりだ。
「本当に良い眺めだよ。葵、いま私幸せだ」
柄にもなく、しんみりとした風に語る雨唯に魅入ってしまった。
こんな姿を見られるなんて、夢にも思わなかった。
いや、目の当たりにしても信じられないほどだ。
しかしこれはこれで、感情に素直な雨唯の、純粋な感動の発露なのだろう。
またひとつ、新たに雨唯のことを知れた。
これがこの修学旅行で一番の、何ものにも代え難い収穫かもしれない。
そんな感慨に浸りながらボーッとした雨唯の横顔を見ていると、愛おしさが加速度的に膨らんできた。
やっぱり、雨唯が一番綺麗なんだ。
「雨唯、手握って欲しい」
そう言って差し出した私の手を見て、雨唯は慌てた素振りで、後ろの先生方を気にしているようだった。
私が指それぞれの間に空けた隙間に気づいたようだ。
「その握り方じゃないとダメ?」
「私の大事なドリンクのお礼、言葉じゃ足りないから。だからお願い」
「うん。その、うん」
雨唯は私の苦しい言い分に微妙に納得できない顔をしながら、しかし断る理由もないという風だ。
フラフラと落ち着かなかった雨唯の手が、覚悟を覚悟を決めたように私の手をギュッと握った。
指と指が絡み合い、がっちり固定された。
「先生に見られるの、恥ずかしいの?」
「ちょっとね。でも、別に嫌じゃないよ」
それはまだ少し浮ついた声でありながら、隠しきれない嬉しさが滲み出た響きで、とても暖かいものだった。
じわじわと溢れ出す幸福感で溺れそうで、雨唯から顔を背けたが、その先で窓に薄く反射した私の顔は、見ていられないくらいの笑顔だった。
「葵、とっても楽しそう」
「雨唯が楽しそうだからだよ」
雨唯は少し驚いたあと、私みたいに笑った。
ああ、この感覚だ。
雨唯といると枷が砕けていく、自分の感情的な側面を肯定できる。
私は、この瞬間の私が好きだ。
私の人生の喜びは、理性的な振る舞いやその先の自己実現ではない。
ただ雨唯と過ごすこんな時間が、私はたまらなく幸せなのだ。
「ねえ雨唯、帰ったら何したい?どこか行きたい?」
「あーっと、海で散歩したい。早起きしてさ。今みたいな時間が日常に組み込めたら、素敵だなって」
良いこと言ったでしょ? と言いたげな雨唯が愛おしくて、私はその案を快諾してしまった。
心の理性的な部分が、親切にも自分の寝坊癖をリマインドしてくれたのだが、雨唯との明日からを想像して忙しい私に、そんなことを考慮する余裕など皆目無いのだった。
「葵。愛してるよ」
雨唯の言葉と笑顔で満たされていく幸せの中、私は、全身を巡る優しい熱に解かれていった。
お読みいただきありがとうございました。
・面白かった
・二人の関係性が気になった
・続きを読みたい
など、なにか感想ありましたら、伝えてくださると嬉しいです。
評価の方も、星1つでも良いのでよろしくお願いします。
今作は超短編として、この話だけで完結としますが、今後二人の物語を詳しく書くこともあるかもしれません。
こればかりは私の気分次第になってしまいますが......。