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第三話:誰かが、倒れていた


風の向きが、変わった。


それは、音でも、匂いでもなく。

ただ空気の密度が、ほんの少しだけ違う方向へ流れた気がした——

そんな微かな異変だった。


私は木々の間に身を潜めるように歩き、

いつもより少し遠いところまで足を伸ばしていた。

水を汲んでいる沢よりも、さらに北の方。

 

その先に、誰かがいた。



——いや、正確には、倒れていた。

 


若い男だった。仰向けに横たわり、服は泥と血で汚れている。

呼吸はかすかに残っていたが、目は閉じたまま、意識はない。


 

私は警戒を解かないまま、視線を細めた。

腹部に刃物の傷。斜めに切り裂かれた布と、その下から覗く腫れた肌。

戦闘の直後であることは明らかだった。


泥と血にまみれながらも、顔立ちは端正だった。

頬骨の陰影、閉じたまつげの長さ、

無造作に乱れた髪の輪郭まで、どこか彫刻的で整っている。



けれど、ただ“整っている”という言葉では足りなかった。


 

この青年には、生の痕跡があった。

それも、ぎりぎりのところで踏みとどまっているような、

繊細な刃の上の緊張感を纏っていた。

その姿を、私はしばらく、何もせずに見つめていた。


 

……どうする?


 

助けるべきか。

けれど、その判断は早計だ。

彼はこの世界の住人だ。私のような異邦人ではない。

敵か味方かもわからない。

仮に意識を取り戻したとして、私をどう扱うかは予測できない。


 

それに、触れるということは、介入するということだ。


 

私はいま、誰とも関係を持っていない。

それが、私を保っている唯一の境界線だった。


 

けれど——。



このまま見捨てれば、彼はきっと朝を迎えられない。

呼吸は浅く、頬には冷たい汗が浮いていた。

服の裂け目から覗いた傷は、すでに腫れ始めている。


触れてはいけない気がしている。

私の中にあった“誰とも交わらない”という選択が、ここで揺らぐことになるから。


 

それでも。



私はゆっくりと、膝をついた。



彼の顔を見た。呼吸のリズムを確認する。

数えてみると、やはり不規則だった。


放っておける状態では、ない。



私はようやく、震えないように意識しながら、

右手を伸ばした。

彼の額にそっと触れる。

ぬるい汗。熱。微かな脈。



そしてその瞬間、右目の奥に、かすかな熱が灯った。


 

——光。



それは視界の奥に、

かすかに差し込んだ幻のようだった。



誰かを背に立つ、この青年の姿。

騎士の格好をした人物達に囲まれ、彼は傷を負いながらも剣を振るう。

「行け!」「走れ!」

誰かを生かすため自分の体を盾にした、そんな記憶。



映像がふっと薄れていき、私は地面に片膝をついていた。

頭の奥に鈍い痛みが残る。けれど、意識ははっきりしている。


 

私は、視た。



彼の過去か、想いか、それとも——

それを断定するには、まだ情報が足りない。


けれど確かにあの映像は、

ただの幻ではなかった。


 

私は震える手で、自分の右目をそっと押さえた。

この目は、ただの器官ではないのかもしれない。

けれど、私はまだそれを“力”と呼ぶことに抵抗があった。


置いてきた荷物を早足で取りに戻り、

彼の傍で焚き火を起こし、毛布を重ねる。


夜は気温が下がるだろう。


名前を呼ぶこともできない男の呼吸が、

今は少しでも安らかであればと、

それだけを願った。


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