78 穏やかな日常
ひとりになって、オレは冷静になった。いや、冷静さはずっと保っていたつもりだけど、今やっと息がつけた気がした。
恋愛感情がない。
オレは、それが酷く衝撃的で、それなのに納得もしていた。ずっと、なんとなく感じていた違和感がやっと言葉として、形として認識できた気がして。……でも、わからない。先輩に恋愛感情を抱いているオレには、恋愛感情自体が存在しない先輩の気持ちはわからない……気がする。わかると思い込むのは駄目だけど、わからないと初めから決めつけるのも、何か違っていると思った。わからないものはわからないけど。
先輩の抱えていたものが、わからないなりにもなんとなく知れた気がして、それで何も負い目に感じることはない、と、そう伝えられたらと思って必死に言葉を探したけど、これは合っていただろうか。『普通』ではないことを気にしている人に、オレの中の『普通』を押し付けたことになっていないだろうか。先輩は、何を求めていただろう。……いや、最初から何も求めてないのかもしれない。
「わからん……」
まだ冷たい外の空気がオレを刺していた。
「ご卒業おめでとうございます!」
テストが終わってあまり経たないうちに、卒業式が来た。
「ありがとー」
3年生が嬉しそうに小さな花束と、部員で手作りしたタイルアートとかキーケースとかの入った袋を受け取る。
中身を見て一層笑顔になる。
「ありがとー!」
それを後輩達は笑顔で見守る。
「喜んでくれてよかったね」
小柳が話し掛けてきた。嬉しそう。
「よかったな」
「がんばったもんね」
「な。荒木早かったよな」
「まぁね。お陰で多く作ったけど」
小柳の陰から荒木が出てくる。普段あまり笑うことのない荒木も、いつもより少し穏やかな表情をしている気がする。
「ははっそうだった」
穏やかだった。1年と3年は一学期しか関わりがない。といっても、直接的な関わりは文化祭の準備片付けぐらいだ。だから、どういう人なのかはよくわかってない。悪い人ではないんだろうけど。
「私達は退散したほうがいいかな」
小柳が2年生と3年生が話し込んでいるのを見て小声で言う。確かに。
「帰るか」
邪魔をしないように静かに歩く。と、
「1年生も、みんな、ありがとう」
「あ、いえ全然」
オレはふたりと顔を見合わせて言う。
「「「卒業おめでとうございます」」」
こうやって、何かが変わっていく。
変わらないと思っていたことが変わっていくんだ。
3年生が卒業したところで何も変わらないと思っていた。でも、実際卒業してしまえば何かが確実に終わっていくような、そんな感じがした。来年。1年後には先輩だって卒業する。オレは、先輩のいない学校生活に耐えられるだろうか。
「あ、尚」
「え?」
駅に着くと、先輩がいた。
「なんで……帰ったんじゃ」
元々、今日は部活の集まりがあるから先に帰ってて、という話をしていた。それなのに、目の前には先輩がいた。それが、純粋に嬉しかった。
「急げば1本前の電車にも乗れたんだけど、待ってたら尚と会うかもなって」
「電車、少ないですもんね」
「うん」
平静を装いそう言った。オレは今すごく機嫌がいい。
「ちゃんと渡せた?プレゼント」
「はい。めっちゃ喜んでました」
「そっか、よかったね」
「はい」
「私は部活とか入ってないから、なんかちょっと羨ましいかも」
「そう、ですか?」
本音っぽく聞こえる。というか、たぶんきっと本音ではあるんだろう。
「うん。その分人との繋がりも少ないからね。……でも、多いのがいいとも一概には言えないか……」
「いや、どっちなんすか」
「ははっ。まぁ、部活入ってないのは自分の意思だから後悔はないよ」
先輩は軽く笑い飛ばした。いつものことではあるけど。
「なら、まぁいいでしょう。たかが高校生の部活ですし」
「言っちゃえばそうだね」
「……電車、もうすぐですね」
「そうだね。ホーム上がる?」
「そうですね」
よいしょ、と先輩が荷物を持ち上げる。今日はリュックじゃない。
「今日鞄違うんですね」
「あー、そう。卒業式だけだから中身、水筒と筆箱ぐらいしかない」
「ですよね。オレなんでリュックで来たんだろ」
「ははっ知らないよ」
『まもなくー下りー○✕方面の列車が到着します。白線より内側でお待ちください』
列車が着く。髪を揺らす。時間帯が微妙だからか、ワンマンだった。
先輩の後ろに付いて列車に乗る。
つむじ。柔らかそうな髪。髪の隙間から見える首筋。ただ、先輩の後ろ姿が好きだと思った。
「尚、座ろっか」
「え、はい」
二人席が空いていたらしい。……突然振り向かれて焦った。
「なんかさ」
「うん」
「人の少ない電車っていいよね」
「なんか、ちょっとわかります」
「ね。落ち着く」
先輩は窓の外を眺めながら言った。学校近くはまだ都会だけど、だんだんと田舎になっていく。緑が増える。視界の隅で先輩の横顔を眺めていた。
「あ、そうだ」
「え、なんですか?」
またもや突然こっちを向く。やめてくれ。隣に座った距離感は、思っていたよりも近かった。お互いがお互いを向けば、かなりの距離。オレは、また平静を装う。
「今度のさ、高校入試で学校休みじゃん?どっか行かない?」
「おーいいですね、行きたい。行きましょう」
「やった」
先輩は嬉しそうだった。
……この頃の先輩は穏やかだ。いや、元から穏やかではあるんだけど、『俊介』に会ったときに少しそれが歪んでいたのが元通りになったような、そんな感じ。……一体、アイツはいつ出没するんだか。オレはこのまま先輩と穏やかに過ごしていたいのに。
「どこ行くー?」
「うーん、そうですね……美味しいもの食べれるところ行きたい、気がする」
「えー、『気がする』?じゃあそうしよう。美味しいものの旅」
「はい」
「ちょい遠出する?せっかくだし」
先輩がこちらの様子を窺いながら聞く。その表情を見ているだけでオレも自然と笑みが溢れた。
「ですね、先輩は行きたいところとかは」
「そうだなぁ……あ、海が見えるとことか」
「確かに。なかなか行きませんもんね、海とか。じゃあ、海と美味しいもの」
「楽しそう。……決めきれないし、後で電話してもいい?」
……電話。一瞬理解が追いつかず、黙ってしまった。電話をするような人が今までいなかったから、びっくりしたと同時に少し嬉しかった。
「……え、あ、いいですよ。オレ大体暇なんで」
「じゃあ、する。電話するの、初めてだね」
そうやってまた、いい笑顔を見せる。……もう、やめてほしい。そんなんだからモテるんですよ、先輩は。
「そうっすね」
オレも先輩に負けじと笑った。




