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天才の弟  作者:
71/81

71 ここにいて

「…………」

 ただただ立ち尽くしていた。そんなオレに先輩はまた口を開いた。

「何も聞かずに、ここにいて」

 縋るような声だった。この言葉を聞いて迷う理由など見つかるはずがなかった。

 オレは先輩と拳ひとつぶんぐらいの距離を空けて座った。服を握り込む先輩の頭に脱いだ学ランを被せた。

 そして、ただ座っていただけだった。泣く先輩の横で。

 ……思えば、これが初めての『おねがい』なのかもしれない。今までこうもはっきり『おねがい』されたことはなかった。ただ普通に笑って、隣にいて、最近なんか手まで繋いで。それでもそれが、先輩の『おねがい』というふうに受け取ったこともなければ、オレの願いのようなものだった。だけど、これは、『何も聞かないで』っておねがい。…………いや、何も聞かないでって言ってるんだ。オレが聞いてほしくないことを勘繰るのもよそう。オレはまた先輩に笑ってほしい。泣くのは今だけにして。

 先輩の横でオレは瞼を閉じる。夕方。ただでさえ暗くなっていた視界が真っ暗になる。感じるのは先輩の気配だけ。

 オレはただいつも通りを装うために呼吸をしていた。



『最終下校時刻になりました。まだ校内に残っている生徒は早急に校外に出てください』

 暫くして放送が流れ始めた。屋上前だからスピーカーが近くになく、遠くからぼやけた放送の声が聴こえる。

 この放送は初めて聞くな。オレはゆっくり目を開けた。

 今までこんな時間まで残ったことはない。ということはもう19時手前ってことか。

 先輩の方を見る。先輩の泣く音はもうしなかった。

「……先輩」

「うん……」

 先輩は掛けていた学ランをゆっくり外す。目と鼻と、それから頬が赤くなっていた。涙の跡がぱっと見てもわかる。

「…………」

 何か喋ろうとして、また瞳が潤んだのが見えた。オレはポケットからハンカチを取り出し、そっとそれを拭う。先輩は抵抗しなかった。

 ……本当は、抱き締めたかった。抱き締めて、先輩が安心するまで、とかじゃなくて、オレが安心できるまで、ずっと体温を感じたかった。でも、できるはずがないよな。オレと先輩の関係は、そういうことを許されるようなものじゃないとわかっている。いや、オレが先輩に対して恋愛感情を持ったまま、していい行為とは違うってことだ。

 それが、家族愛のような、または友情のような、そんなものならよかったのかもしれないけど。

 こちらをまっすぐに見つめる先輩の目を見る。あまりに綺麗で、そして、哀しさを併せ持っていた。

「……帰りましょうか」

「うん」

 オレは先輩にぼんやりと微笑む。

 投げ捨てるように置いたままだったリュックを取りに行くのに先輩に背を向ける。と、ぽす、と背中に何か当たった。当たった、というよりは触れている。

 先輩の頭だ。腕も背後から伸びてきて、オレの身体の前で手を結ぶ。……つまり、後ろから抱き締められている。

 心臓の音がやけに響く。周りにオレ達以外いないせいで静かで、余計に。

「……先輩?」

「私は、ずるい。ごめんね、尚」

 そう言いながら、ずり、と額を背中に押しつけてくる。小さい子供みたいに。

「何が……」

「大事なことは何も言わないくせに、こんな中途半端なことばっかして。ごめん。ごめん」

 先輩の手に力が籠もった。オレはその手にそっと触れた。

「いいですよ、そんなの。お互い様ですよ」

 できるだけ優しい、柔らかい声色で言う。

 付き合って、とか言ってないし。オレが勝手に好きって言い逃げしてるだけだし。……そりゃ勘違いしそうにはなるけど、まぁお互い様だろう。このはっきりしない関係性は。

「……そろそろ、本当に帰りましょうか」

「うん。先生に怒られちゃうね」

 ……オレが、その体温に耐えきれなかったからだ。

 別に先生に怒られようがどうだっていい。でも、この温もりに触れていたらどうにかなりそうだった。顔を見て、前から抱き締めて、それから……なんて、そんな勇気もないくせに感情だけが場違いに暴走して。

 先輩から離れても波打つ鼓動がうるさくてしょうがない。オレも先輩と同じ感情を持てたら、それなら、なんの問題もないのに。

 オレ達は荷物をまとめて階段を降りる。お互い黙ったままだったが、先輩が口を開いた。

「……尚は……」

「はい?」

「尚は、どういうときに生きてるって思う?」

 先輩はこっちを向いてはいなかった。

「え……もしかして深刻に悩んでますか……って聞いちゃ駄目なんだっけ」

 さっきの『おねがい』はどこまで、いつまで有効なんだろう。

「あ、そっか。ううん、深刻に悩んでる訳じゃない。ふと思っただけ」

「そうですか……」

 ……おい、何悩んでんですか。そんなこと聞く時点で既に深刻だろ。

「……あ、そういえば思い出したんですけど」

「ん?」

「生き物の進化の過程で寝るって無防備で一番危ないのに、それが無くなってないってことは、生きるってのは寝ることなんだって説があるとかないとか」

 いつかテレビかなんかで見た話を思い出しながら言う。オレはこの説を聞いたとき、心底納得してーー安心したんだった。それならオレはちゃんと『生きられてる』って。

「……へぇ、そっか。そういう考え方もあるか」

 先輩は驚いていた。そして納得したように何度も頷く。

 まだ泣いた跡は残ってるけど、少しいつもの先輩のような感じに戻った気がする。

「おもしろいですよね。それ知ったときは寝ようって気になりましたし」

「そりゃそうなるよね。私も睡眠だけは取ろう」

 柔らかく笑っていた。というよりかは、今、精一杯笑ってるように見えた。でも、すごく穏やかに。

「私、考えたんだけどさ」

「はい」

 ……なんとなく空気感でわかってしまった。これが先輩か本当に言いたかったことだって。

「どうしようもなく恨んだり、許せない相手がいたら、生きられたりするじゃん?」

「……あ、復讐的な?」

 オレはなんでもないようにそう返す。先輩もそうする。

「そうそう。よくフィクションではあるし。……それが、現実でもそうだとしたら、死ぬよりも、その生き方を選んででも生きてる方がいいのかな、とか思って、最近ね、考えてた」

「……確かに、うん……どっちだろう……生きるって、そんな偉いことなんかな……」

「え?」

「いや……生きなきゃって生きてもきっと意味とかないよな、とか、でも死ぬ理由がないから生きるとか、言うけど、死にたいなら死なせてあげるのが一番いいのか、とか。……すみません、よくわかんないです」

「……尚は、し……えっと、許せない相手とかっている?」

 何か言いかけてやめたな。なんだったんだろう。てか、その質問なに?

「……許せない相手、はいないですかね。そこまで恨んだりできるような相手は。腹立つことはあっても」

 まず思ったのは母親だった。

 でも許さないほどオレはもう母親に執着はしていない……つもりだ。だから、きっと、オレが許さない相手はいない。兄ちゃんのことも、恨んだりとか許さないとか。そういうものとは違う。

「そっか……。私のことは恨んで許さなくていいからね」

「え?」

「お腹空いたね。コンビニでなんか買おう」

「え、あはい」

 なんだ、あの言葉。棘もないのに、引っ掛かって落ちてくれない。また。まただ。また先輩のことがわからない。

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