60 嫌みなく
リングの方が手前にくるように置いてなかったっけ。……まさか。
オレは、ばっと後ろの扉を振り向いた。誰もいない。というか開いてすらいない。物音ひとつしない。
……そうだよな。誰かが見ていたとして、今ここにいるとか、そういう訳ではない。
ーー母さん。母さんしかいないよな、これ見てるとしたら。でも……どうして何も言ってこない?あんなにオレが絵を描くことを嫌がっていたのに。捨てるとかしないのか。オレを罵倒するとか。まぁ、何も無いに越したことはないか。
いいや、向こうが何も言ってこないなら、オレだって何も気づかなかったふりで通せばいい。
オレはきっと親との相性が良くないだけで、ある程度恵まれた環境であることは自覚している。
「おはよー尚」
「えっ」
朝、人の波に押されながら改札を出ると、先輩が隣に並んだ。珍しい。靴箱で会うことはあっても、こんなすぐに会うとは。
「電車降りて歩いてたら尚見つけて」
「そうなんですか。おはようございます」
「うん」
信号で立ち止まる。ぼんやりと光る信号を眺める。
「あ」
「ん?どうした?」
「こないだ、一緒に帰るみたいな話したじゃないですか」
「したね」
「どこで自習してますか?確か2年生、三学期からは教室で自習可能でしたよね」
場所聞いとかないと、先輩たちのフロアで歩き回る羽目になる。さすがにそれは避けたい。
「あ、そっか。確かにそうだ……どうしよっかな」
「……教室の方がいいんじゃないですか?まだ寒いし」
「だよねーじゃあ教室でする。部活終わったら来てくれる?」
「はい。……ちゃんと気づいてくださいね?自習しとる中に入るのはさすがにこわいんで」
「はーい。きっと気付くさ」
わかりやすく口角を上げてグッドサインを送ってくる。逆に心配だ。
「じゃまた後でね」
「はい」
「じゃあ、今日からは卒業する三年生に向けてプレゼント作りということで……タイルアートをしたいと思いまーす」
「「「タイルアート?」」」
オレと岡本さんと小柳の声が被る。今ここにいるのは二年が五人と一年が二人だ。……二人?
「今日荒木は?」
先生がタイルアートの説明をしている傍ら、小柳に話し掛ける。
「今日はまじでなんでいないのか知らん。さすがに来ると思ってたけど……サボりかな。サボりだな」
「さすがすぎる」
「草間クンは意外と真面目だもんね」
「オレの必要最低限に部活は一応入ってるから」
「へー。必要最低限」
「そう。必要最低限」
小柳との会話を止めて先生の方を見る。
「さ、作ってよ?」
「あ、はい」
よくわかってないまま返事をする。先輩たちは手元にトレイと小さなタイルをかき集めている。ちょうどテーブルの中心にタイルやらなんやらが入った網籠がある。こっから取ればいいのか。
「三年生が十人だから、何人かに二つ作ってもらうよー」
長間先生がオレ達一人ひとりの顔を見ながら言う。オレは苦笑いを浮かべた。正直人に渡すようなもので上手くやれる自信がない。自分のだったら全部自己責任だから色々できるけど。
「あ、こういうのって誰に渡すとか決めて作った方がいいか」
「確かにー」
「イメージカラー的な?」
先輩たちが先生の言葉に頷く。
……確かにその方がいいのかもしれないけど、それもそれで難しいというか……誰が作ったか、すぐわかっちゃうじゃないか。
そう思いながらも黙って先生や先輩たちの会話を聞く。
「……じゃあ、草間くんは木下さんでいい?」
「え、あ、はい」
会話を聞いていたはずなのに気づけばぼーっとしていた。
木下さんか。ほぼ話したことないな。というか、三年生と関わる機会とか文化祭ぐらいしかなかったし……その文化祭もただの事務的なことしか話してない。イメージカラー。ムズくないですか?
「んー……」
「どうした、草間クンよ」
「や……木下さんのイメージカラーってなんだろって」
「あー……オレンジじゃない?」
「そう?」
「いや、わからん」
「なんじゃそれ」
オレンジ。確かに、なんとなく明るい印象があるから強ち間違ってないかもしれない。
手を伸ばしてオレンジや黄色、緑の小さいタイルを取る。
「あ、オレンジにするんだ。確かに、ぽいよね」
岡本さんに話し掛けられる。
「あ……小柳がオレンジだって言ったから、確かにって」
「よかった、イメージカラー、ズレてたらどうしようかと思った」
だはは、と小柳が笑う。
「もっと軽い気持ちでやればいいんだよ、こういうのは」
「ちょっと気持ち悪い配色にならんように頑張ります」
「草間クンはだいじょーぶでしょ」
「いやいや、小柳の方が……」
ーー賞だって取ってるんだし。
思わず口から出そうになった言葉を呑み込む。こんなこと言ったら空気が悪くなりかねない。気をつけよう。
……つーか、オレ、小柳におめでとうって言ってない。でも、今更?タイミングがなかったし。今ここで言うのもなんか違うというか。それに……笑って、気持ちよく言える気がしない。
「あ、そういえば冴ちゃん、全国おめでとう」
一瞬心臓が止まった。岡本さんだ。彼女だって賞は取ってなかったはず。少しの嫌みも何も感じさせない、ただ、『おめでとう』の感情だけを伝えられるんだ。
「あ、ありがとうございますぅ」
小柳は照れながらお礼を言う。オレも、言わないと。喉の奥が渇いて貼り付く。一度唾を呑んで声を出す。
「おめでとう、小柳」
「え、ありがとう」
小柳は驚きながらも嬉しそうだった。……よかった。安心した。気持ちも少しすっきりした。
バシィっ
「えっ?」
突然肩を叩かれる。岡本さんに。え、なんで?
オレは岡本さんをじっと見る。え、なに。なんなの?
岡本さんは微笑みながら、頷いた。……いや、わからんて。なに?
何がなんだか、よくわからなかったけど、オレは笑っていた。




