32 今は
今日は11月11日。時刻は16時06分。場所は階段。正面に3Fと示されている。記憶を遡る。
あの手帳。先輩の手帳。あそこにはなんて書いてあった?確か…………
11月11日 16時05分 2〜3 階段
オレの記憶通りなら、あの手帳に書いてあったことはこのことだったように思える。ただの偶然の一致かもしれない。むしろそう思いたい。ーーでも。そうじゃないとしたら。先輩の青ざめた顔。あれは何を表していたというのだ。
目の前で先輩たちが何かを話している。それすらもどこか遠くの情景のような、意識が朦朧としたような、変な感覚。
「先輩」
先輩を呼ぶ。青ざめた顔は少し温かみをはらんだように見え、安心したように笑う。
「怪我、してない?」
オレは頷く。それでもう精一杯だった。オレの頭は先輩のことでもうキャパオーバーだ。
「あの!」
すぐ横から声を掛けられる。落ちかけていた女子生徒。胸の緑のバッジが目に入る。2年生か。今更だけど先輩であったことに気づく。
「ありがとうございます」
「いえ、全然。怪我ないですか?」
「うん、大丈夫」
彼女は思いきり頷いた。ひとまず良かった。そろそろ別れどき、というか本来なら関わることがなかったんだから、この場を去ろう。
「先輩、行きましょう」
「うん……」
オレは歩き出す。あ、手ぶらだ。先輩に本持っててもらっていたんだった。先輩を振り返る。
「先輩?置いて行きますよ」
先輩はぼんやりとして動いていなかったが、はっとしたように顔を上げ、あの女子生徒に手を振り、早足でこちらに来る。
「ごめんごめん」
横に並ぶ。足を踏み込むタイミングが合う。
「本、ありがとうございます」
「えっ?ああ、全然」
先輩から本を受け取る。触れた手が酷く冷たかった。思わず動きを止める。
先輩はそれを不思議そうにことらを覗き込む。
「どうかした?」
口調こそいつも通りだが、まだ表情は引き攣ったままだ。
「嫌だったら拒絶してください」
せめてもの理性でそう言うと、左手で先輩の右手を取る。拒絶される感じがなかったから、そのまま覆うように、逃がさないように手を握った。力を入れると、今にも壊れてしまいそうな手だった。その手を壊してしまわぬように、ゆっくりと歩き始める。
冷たいままの手だけど、力が抜けたのがわかる。良かった。嫌がられてはいない。このまま、このままで。
「…………尚、荷物は?」
「んー」
オレは曖昧に笑う。荷物を置きっぱなしの4階を通り過ぎ、そのまま屋上前の踊り場に向かう。先輩は何も言わずについてきた。
オレたち二人の足音だけが響く。遠くの喧騒も気にならないくらいに。
着いた。
オレはゆっくり先輩の手を離した。気づけば先輩の手も温かくなっている。…………体温みたいに、何でも分け合うことができたら。そんなことを無意識に考えていた。
「先輩」
「なに?」
「先輩は…………なんか、隠してるよね」
「…………」
こんなことを言ったって先輩は口を割らないだろう。聞いてほしくないときはいつも圧がある。もっとも無意識かどうかはわからないが。
「前にさ、先輩言ってましたよね。『自分の気持ち正直に言えるのは強い』って」
「……言ったかな?」
とぼけている。先輩と目が合わないし。
「オレは、先輩のことが知りたい」
「もう十分知ってるでしょ」
先輩は斜め下を見ながら言う。まったく目が合う気配がない。
思っていたよりもこの壁は厚いのかもしれない。
「全然知らないですよ」
「そんなことない」
「じゃあ、なんなんですか。さっきの青ざめた顔は」
「それは…………」
先輩は口籠る。やっぱり何かあるんだ。
「そんなに、オレには言えないことなんですか?」
「……………………」
ずるい言い方をした気がする。でも、そうでもしないと何も言わないだろう?なぁ、言ってくれよ。
「先輩…………」
「言えない、今は」
やっとこっちを見て先輩は言った。その顔に嘘なんか見えない。透き通った瞳をしている。でも、先輩だってずるいな、それは。
「今はっていつまで?」
「今日はやけに押しが強いね、尚」
「はい。こればっかりは」
絶対に引けない。先輩は何かを抱えている。そしてーー消えそうだ。これは自分の勝手な感じ方だが。
「1年後とか、かな」
先輩は泣きそうな顔でそう言い、笑った。




