31 沈む
結局その日は絵を描くのをやめた。
スランプになって描けなくなった訳ではない。オレには天才が陥るようなそんな現象は起きない。
『観光の街』を手に取る。やっぱり小説を読むことにした。
ガタン
扉が開く音で小説から顔を上げる。母さん帰ってきたのか。スマホで時間を確認する。5時じゃん。いつの間に。一旦栞を挟み、閉じる。半分は余裕で越えている。それだけで割と満足感がある。久しぶりの小説だしな。なんかこれを一日二日で終わらせてしまうのはもったいない。そんな気すらした。
「今日、図書室行きたいんですけど、いいですか?」
借りた本を先輩に見せる。今日は借りてちょうど一週間だ。返さなければ。
「いいよ、もなにも私は尚についてくから、安心して?」
「ついてくからって…………」
呆れながら笑う。今となっては先輩が放課後に来なければ違和感がすごそうだ。
「ていうか、本とか読むんだ」
「そうなんです」
にやっと笑ってみせる。思いの外先輩は感心したようにこちらを見た。
「へぇ」
「嘘っす。高校生になってからは、ほぼ初めて読んだ本です」
冗談のつもりが信じられてしまい、すぐ白状する。
「ナチュラルに嘘つくじゃん」
「こういう嘘は得意分野なんで」
「嘘に得意分野とかあんの?」
わはは、と似た笑い方をする。いつも通り呑気な感じだけど、何か違和感がある気がする。
「先輩って本読みます?」
「うーん気分かな」
「気分」
「うん。読まなくはないけど、最近は読んでない」
「そうなんすか」
オレたちは一階の図書室に着いた。
「こんにちは」
「「こんにちはー」」
司書の方に挨拶を返す。
「これ、返します」
「はーい」
「あ、で、こっちはもう一回借りてもいいですか?」
「あぁ、全然いいいですよ」
許可も下りたことだし、『みちをゆく』はもう一回借りることにする。話自体は知っているが、まだ二回目は読めていないから。
ありがとうございます、と言い先輩を探す。先輩はオレがこないだ見ていた本棚のほうに隠れていた。横に並ぶ。
「物色していきます?」
「あ、いい?」
「はい」
オレもまた借りる本を探す。今日のところはまだ借りない予定だけど。
「私、高校で図書室入ったの初めて」
「そうなんですか?」
「うん。もう2年も半ばなのにね」
じーっと整頓された本を眺めている。長い睫毛は伏せられ、その横顔が少し寂しそうに映る。何を考えているんだろうか。
「…………あ、これ」
「ん?」
先輩の声でそちらを振り向く。
「懐かしい。この本好きだったなー」
先輩の手には見たことがない本。『沈む』シンプルなタイトルだけど、なんだか奥が深そうだ。
「この本、救いがないの」
「え?」
「どこまでも沈む話」
「………………」
反応に困った。おもしろそうですね、は違うし、いい返しが見つからない。
「ごめんね、こんな話」
「いやいや、ちょっと読んてみたくなりました」
「え、ほんとに?」
「はい……ただ、これが全然読めてないので」
『みちをゆく』を軽く上げて見せる。
「そうだね、また暇になったら読んで」
「はい」
先輩は笑った。
それから図書室を適当にぐるぐる回り、出た。
「結構時間経ってたね」
「そうですねぇ」
腕時計を見ると、もう4時を回っていた。絵も進めなきゃなんだけどなぁ。こんな呑気にしていていいんだろうか。いや、駄目だとわかってはいる。
階段をゆっくり上っていく。
「今度、あの本読みますね」
「え?あぁ、うん。でも気分落ち込んできたらやめてよ?」
「ははっ。はい」
手にある本を眺めながら、お互い無言のまま階段を上る。沈黙はそんなに気まずくない。
二階についたところで、テスト期間いつからだっけ、と先輩に尋ねようとする。
「先輩、…………」
話しかけるが聞いていないようだ。先輩のほうを向くーーと顔が真っ青だった。一方をじっと見て唇が微かに震えているのがわかる。視線を追うと女子生徒二人組がいた。彼女たちに何かあるのか?オレも彼女たちを観察する。笑い合ってる。別に不自然なものも何もない。彼女たちと気まずい関係なのだろうか。…………でも、こんな反応になるか?ちらっと先輩をまた見てみるが、未だじっと見たままだ。オレはまたその二人組に目を向けた。後ろで男子生徒がじゃれ合っている。
ーーもしかして。
「持ってて」
「え」
先輩に本二冊をばっと持たせ、早足でその二人組のほうへ向かう。
「わっ」
やっぱり。
二人組の片方が後ろにいた男子生徒の肘があたり、足を踏み外した。
ドサッという重い音と何かが転がるような音が聞こえる。
オレはとにかく近くの手摺りを掴み、彼女を抱き締める形で階段から落ちないようにする。やば。転けそうだが、どうにか踏ん張る。
「あっぶねー」
どうにかはなった。すぐそこの彼女からすごい心音が聞こえる。そりゃそうか。というかオレも大分やばい。心臓が壊れそうなくらいに脈打っている。
「えっと…………大丈夫すか」
「ご、ごめん…………」
ゆっくり身体を離す。…………さっきの彼女の言葉が引っかかる。
「ごめんってあなたは悪くないのに」
半ば独り言で言う。
「えっと……ありがとう?」
オレはその言葉に頷く。静まり返った階段でコツコツコツと焦ったような足音がする。振り返ると先輩が肩を上下させて立っていた。手にはオレの小説と筆箱や教科書が握られている。彼女の荷物か。
「……尚、ナイス」
先輩は引きつった表情のまま、そう言った。依然として顔色は悪い。
「先輩」
オレは先輩の姿を見て安心した。でもそれと逆に心臓が嫌な音を立て始める。
ーー今日は、11月11日だ。




