第一章 4
——カラン。
机の上のグラスが、小さく音を立てる。
こんな何気ない音にさえ、人は多くの物語を見いだす。
いつだったか、家族で行ったレストラン。まだ幼かった俺の前で、父さんはアイスコーヒーを飲んでいた。いつだってミルクや砂糖は使わない人だったから、俺はそれが苦いものだなんて思いもしなかった。だから、父さんに「飲んでみたい? 秀叶、これはな、すご〜く苦いんだぞ?」と言われた時、すごくびっくりしたのを覚えている。
——その時、ストローにかき回されてカラカラと鳴っていたグラスを覚えている。
*
「お待たせいたしました〜」
ポテトとチョリソーがのったプレートが運ばれてきて、俺たちはそれを机の真ん中に置いた。
まだ人があまり多くない店内で、配膳ロボットが陽気な音楽を奏でている。そこかしこに絵画がプリントされた壁は、全国どこでも変わらぬ姿で学生たちに栄養と憩いの場を提供してくれるこのレストランのシンボルとも言える。
ここは、先ほどのスタジオから十分ほど歩いたところにあるファミリーレストラン。
一ノ瀬弦華さんの「ミュージックビデオ制作を手伝ってほしい」という話を承諾した俺は、具体的なプランについて——プロジェクト初となる打ち合わせのために、クラスでも指折りの人気女子と二人で安価なイタリアンにやってきていた。
「わ〜! 私これ今まで頼んだことなかったんだけど、いいね! なんか少し贅沢してる気分!」
「……一ノ瀬さん、こういうとこ来るんだね。なんとなく、もっとおしゃれなところしか行かないのかと思ってた」
「え、普通に行くよ⁈ ここのピザ大好きだし、高校生でここに来ない人なんかいないでしょ!」
そう言って楽しそうに笑う目の前の女の子を見て、俺も自然と口角が上がってしまう。
放課後に二人でファミレス。これではまるでデートだ。
俺はふと、自分が置かれている状況の幸運に浮かれてしまう。
——って、そんな場合じゃない!
これはあくまでも打ち合わせ。一ノ瀬さんがYouTubeにあげる初めて演奏動画——ミュージックビデオの作成に向けた打ち合わせなのである。
「……手伝ってほしいっていうのはわかったけど、俺は具体的に何をしたらいい?」
「とりあえず、一番はカメラマンかな。一人だと撮るの難しいところたくさんあるから」
「その言い方だと、何を撮るかはもう決まってるっぽいね」
一ノ瀬さんはストローで鮮やかなメロンソーダを吸いながら「んー」と鼻を鳴らす。
「大体はね! でも具体的に書き出したりはしてないから、まだ固まってはないかな」
「……なるほど。じゃあ、今日はその作業に付き添えばいいのか」
言いながら俺は、先ほど聴いた一ノ瀬さんの曲について思い出していた。
明るいトーンと緩やかな語り出しが印象的な、一番だけの短めの曲。語り手となる一人称の女の子が、ある日突然消えてしまった想い人に向かって自分の気持ちを歌う歌。時に強い寂しさや悲しみを宿したその歌詞は、それでも彼を励ますように、暗い気持ちなんて吹っ飛ばして前を向いていくように、どこまでも明るい曲調で歌われていた。
あの曲に添える映像。歌詞の内容もそうだが、緩やかな語りだしとテンポ感の増すサビとのコントラストを、彼女はどう捉えているのだろうか。
「——ううん! それは一人でやるよ! ちゃんと一人である程度形にしてから共有したいの」
「え……、そうなの?」
「うん。だから、今日はそんな真面目なやつじゃなくて、ただの親睦会! これからよろしく〜って、そういうやつだよ」
一ノ瀬さんはそう言って、ニカッと笑った。
俺はそんな彼女を見て、少しがっかり——なんてするはずもなかった。どんな形であれ、女の子との二人の食事であることに変わりはない。目の前には推定サイズDカップのおっぱいに押し上げられたワイシャツ。机には裏向きで置かれた彼女のスマホ、俺よりも少し小さな手——今まで見ることのなかったもの、俯いた時に重力に引かれてサラリと動く栗色の髪を正面から見ることができる。一緒に間違い探しを覗き込んでいる時には、彼女から香る甘くて優しい匂いに全身がムズムズした。
初めて話をした一ノ瀬弦華という人間は、思ったよりもずっと普通の女の子だった。
同じ科目の課題に悩み、最近はお弁当屋さんのカレーに興味を持っていて、秘密を明かすときには臆病になる、そんな同い年の女の子だった。
やがて俺たちは店を出て、駅に向かった。駅に着くまではそれなりに会話をしていたのに、改札を通り抜けた途端に会話がなくなったのが不思議だった。
その不可解な沈黙を伴ったまま、俺たちはホームで肩を並べ、電車を待っていた。
「……ねえ、一ノ瀬さん」
「——弦華」
「え?」
「弦華でいいよ。一ノ瀬さんって、なんかカタすぎ!」
そう言って、彼女は冗談っぽく笑った。
「そっか……。じゃあ、弦華」
「うん、そっちの方がいいよ!」
弦華が笑ってくれたのが嬉しくて、それが次の言葉になった。
「弦華も、俺の呼び方、秀叶でいいよ。野中くんって、なんかカタすぎ」
ハハ、と冗談めかしく笑うと、目の前の少女もまた笑った。
「うん、わかった! 秀叶がそう言うなら……!」
ちょうどそのタイミングで電車がやってきて、俺たちは同じ車両に乗り込んだ。
帰宅ラッシュの車内は混んでいて、俺たちは言葉は交わさずに押しつぶされていた。
やがて次の駅に到着し、俺は乗り換えのため降りる態勢に入った。
ふと、降りる前に一言、彼女に挨拶しようと思った。
けれど、ちょうどいい言葉が見つからなくて——
楽しく過ごしたあの時間も、心を開いてくれたように感じたあの仕草も言葉も、その全てが実は俺の勘違いだったら……。全部俺の一人芝居だったら……。
嘘じゃないと確かめるための一言が、その瞬間とても怖く感じられて——
「——またね! また明日、学校で!」
その瞬間、弦華がなんでもないようにそう言った。
そう言うのが、必然であるかのようにそう言った。
だから俺も——
「また明日……!」
振り向きざまに手を上げて、願うようにそう声を放った。
やがてドアが閉まり、電車は颯爽とホームを去っていった。
たとえばこういう瞬間に——
こんな雑踏を掻き分けて、頭に流れるメロディーがあればいい。
一人になったのに落ち着かない、この鼓動を鎮める曲があればいい。
でもやっぱり——いつでもこの日の『またね』をえがく、そんな歌を歌っていたい。




