第三章 3
『ねぇ、あの時みたいに歌ってよ! 最初に会った時みたいに!』
いつだったか、弦華に言われたことがある。
俺はそれをいつものように断って、その無邪気な顔をがっかりさせたっけ。
弦華はいい奴だ。いつも元気で、一緒にいるとこっちまで元気になる。俺の目をまっすぐ見て話してくれる。学校でも学校の外でもおしゃれで、髪なんかツヤツヤだし、おっぱいも大きい。
できることなら、彼女の望みには全部応えてあげたいし、喜ばせてあげたい。
けれど、それでも——
——俺は二度と、人に歌は聞かせない。
痛みと悲しみ。そこにわずかな怒りが混ざって、俺は奥歯を噛み締めた。
*
『電車が到着いたしま〜す。黄色い線の内側に下がってお待ちくださ〜い』
ホーム沿いに立っている駅員の声が、マイクを通して三番線沿いに響き渡る。
直後、「新宿行」と書かれた電車がホームに滑りこんできて、俺と弦華は揃って車内に乗り込んだ。
それから電車に揺られること二十分ほど——俺たちは小田急線「成城学園前」駅に辿り着いた。
「——着いたね! 成城学園前!」
「あのさ弦華、一つ聞いてもいい……?」
「なに?」
「なぜ通学路と反対のこの駅? 今日の内容、いつもの駅でも撮れるよね?」
「ん〜……、まだ内緒! 全部撮り終わったら教えてあげる〜‼︎」
弦華はケラケラと笑って改札を通り抜けた。
——放課後。俺と弦華はMVの最後の撮影のため、わざわざ互いの自宅とは反対方向のこの駅にやってきていた。
約束通り、絵梨歌はいない。今日は二人きりである。
改札を出るとすぐに、駅と融合した商業施設の空間が現れた。吹き抜けのようになっているその空間を見上げると、本屋や雑貨屋、レストランなどのお店が入っている各フロアが視界に入ってくる。体育館のキャットウォークが何層にも積み重なったようなその先には半透明の屋根があり、そこから差し込む陽光がフロア全体を明るく照らしている。
改札の正面に上へ行くためのエスカレーターがあり、俺たちはそれを使って最上階である四階まであがった。あたりを見回すと、ちょっとした木々が植えられた緑のあるスペースがあり、その近くには手頃なベンチもあった。
「——ここにしよっか」
その一言で、一つ目の撮影ポイントが決まった。
——今日撮影するシーンは二つ。
一つは、主人公の少女がスマホで動画を観ているシーン——これは、動画を通して、主人公が想い人と出会うシーン。
もう一つは、主人公の女の子が夕暮れの川沿いを歩くシーン——これは、主人公が消えてしまった想い人のことを考えながら、様々な場所を旅するシーンの一つ。
これまで撮ってきた映像の抜粋と弦華が一人で撮ってきた映像、それと今日の撮影分を合わせて、これでMVのために必要な動画素材はすべてになる。
撮影するシーンの重さ自体は変わらないはずなのに、ついこれまで以上に身を引き締めて取り組もうとする自分がいるのは、きっと今日が特別だから。
——そうだ。これで、最後なんだ……。
ポン——と、この数日間ですっかり聴き馴染んだ録画開始の音が鳴り、ベンチに座る女子高生の横姿がスマホの画面に写し出される。女子高生と言っても、服装は私服。この撮影のためにあらかじめ持ってきていたらしく、さっきトイレで着替えていた。オーバーサイズの白いスウェットに青いデニムパンツを身にまとい、髪は下ろしている。はたから見たら俺の方が不自然なんじゃないかとふと不安になる。
幸いだったのは、オーバーサイズによって胸の主張が抑えられ、長いズボンによって太ももの露出が抑えられていたことだ。俺の精神安定につながるという意味で、幸いだった。……いや、実は逆か?
ともあれ俺は、スマホを覗き込んだ弦華を顔が見切れるような構図で、手元を中心に撮影していく。
——だが、これが思ったような映像にならない。
「ん〜……、正面から撮ってみるとどうかな。あとは、斜めとか……」
納得のいく映像になるまで、何度も試行錯誤を重ねる。これまでもずっと繰り返してきたことだ。
実は放課後の打ち合わせの時も、「なにかに使えるかも」とか「撮影の練習」とか言って、撮影の時間を重ねていた。MVに使わない映像を撮り溜めても仕方ないと思っていたし、そこまで真剣に撮っていたわけでもなかったが、今にして思うとそれらを撮っておいて本当に良かった。MVという成果物だけでなく、そこに向かう歩み、彼女と過ごしたこの日常を、少しでも未来の自分に残してあげられるから……。
そんな風に自分の意識を「記憶の旅」に回していると、俺の胸はまた苦しくなった。
俺たちはそのまま、このシーンの撮影を続けた。離れて撮ったり近づいて撮ったり、アングルや構図を変えたり、少し場所を変えてみたりと、テイクを重ねた。
やがて時間が経ち、そろそろ川沿いに移動しなくてはという時間になったので、俺たちはこの出会いのシーンの撮影を終え、最後のシーンの撮影のため川沿いへ向かった。
*
「……なんか、ちょこちょこ学生がいるな」
「ね! 近くに学校があるのかな……」
「ちょっと恥ずかしいな」
「アハハ、秀叶制服のままだもんね」
「あ、モスがある。撮影終わったら、帰りに寄らない? ハンバーガー食いたい気分」
「お、いいねぇ! 無事に終わったら、帰りに寄ろう!」
成城学園前駅の南口を出て、雑談を交わしながら信号を渡り、直進する。やがて現れた坂道で左折し、そのまま下っていくと、いかにも街中の川という雰囲気の、コンクリートで舗装された浅く狭い川——『仙川』が現れた。
「……ここでいいのか?」
夕暮れをバックに金管楽器を吹き鳴らす——そんな情景に出てくるような、空の広い河川敷を想像していた俺は、このあまりに強い住宅街の雰囲気を前にして恐る恐る尋ねた。
「うん。ここでいいんだよ」
だが弦華はあっさりとそう答え、そのまま撮影ポイントを求め駆け回り始めた。
その様子を見て、俺もスマホを構え、絵になりそうな箇所を探す。
「——秀叶〜‼︎ こっち〜! こっち来て〜!」
やがて弦華がまるで最初から知っていたかのような速度で丁度いい場所を見つけ出す。
俺たちは『打越橋』という橋からから少し川下へ進んだ、両側が桜並木になっている地点で撮影を開始した。
——ポン。
川沿いの道を歩く少女を、俺も並走する形でカメラに収める。とはいえ、この撮影ポイントは車が入れない散歩道のようになっており、道幅が狭い。そのため、横から撮るのは早々に諦め、後ろから追いかけたり、正面からバックする形での撮影を中心にした。
ここで大活躍したのが、門咲凛音から借りた『スマホ用ジンバル』だ。手ブレによる映像の乱れを大きく軽減してくれる道具。実はラインで繋がっていた凛音に映像についてのアドバイスを求めた時、たまたま話題にあがり後日学校で貸してもらったものだ。相変わらずツンツンしていたが、決して安くはない自分の持ち物を貸してまで協力してくれているのだから、やはり彼女は憎めないと思う。
「……どれでいく?」
等間隔で生えた桜の間に置かれたコンクリートの四角いブロックに腰を下ろし、俺たちはスマホの画面を覗き込む。
「ん〜……、『後ろ』からのやつかな。できる限り他のパターンも押さえておきたいんだけど、後ろが最優先!」
「おっけい」
そろそろ空が色づき始める。夕暮れの光は一瞬で変化し、本当に良い条件で撮れる時間はそう長くはない。
「そろそろ本番って感じだな」
「うん……」
「じゃあ、始めようか」
「うん……」
「……大丈夫? なんか、元気なくない?」
「ううん、これでいいの」
——ポン。
それから陽が沈むまでの間、俺と弦華は時間の許す限りテイクを重ねた。
*
太陽は完全に姿を隠し、あたりはすっかり薄暗くなっている。
彼は誰時を少し過ぎた頃——俺と弦華は、仙川の川沿いで映像の確認を行なっていた。
「……うん! 良い感じ‼︎」
「うん、俺もそう思う」
俺たちは互いに顔を合わせ、大きく笑った。
「やった〜! 撮れた〜‼︎」
「はは、お疲れ! 弦華」
「秀叶こそ、お疲れ様! 今日まで、ほんっとうにありがとう……‼︎」
「何言ってんだよ、まだ終わっちゃいないだろ?」
「まあそうなんだけど……、それでも! 本当に、ありがとう!」
集中状態からの開放感も相まって、お互い、言葉に感情がいつもより大げさにのる。
「そうだ! 乾杯しようよ! 撮影終わった記念!」
「乾杯って……、ここで?」
「うん! 待ってて! 私、自販機行ってくる!」
「あ、それなら俺も……、って、もう行っちゃったし」
俺は元気よく駆けていく背中を見届け、ジンバルなどの撮影機材を片付け始めた。
——それにしても、終わってみると一瞬だったな。
先ほど自分で弦華に『まだ終わってないだろ』と言ったくせに、一人になるとそんなことを考えてしまう。
「ほんと、長かったような一瞬だったような……」
そう言葉をこぼし、俺はこの数日間を思い返す。
その時ふと、頭の中にメロディーが流れ出した。
——わかってる。いつものことだ。
俺は頭でそう考え、湧き上がる衝動を理性で抑え込もうとする。
——だが、今日はそれがどうしてもうまくいかなかった。
——ららら〜ら〜、ららら〜ら〜
一度口から漏れ出たメロディーは、その終わり方を忘れるように延々と流れ続ける。
——今だけは。
この、まだ肌寒さの残る春の夜風に湧き上がる焦燥に、優しい歌を添えてあげたい。
俺は願いを込めて歌い続ける。
どうか今、この瞬間だけ——
「——秀叶」
バッと振り返ると、そこには弦華がいた。手には缶の三ツ矢サイダーを二本持ち、少し離れたところで立ち止まっている。離れているせいか、薄暗さのせいか、彼女の表情がよくわからない。
「あ……、おかえり、弦華! 早かったね」
俺は誤魔化すように彼女に駆け寄り——その表情に気づいた。
——それは、強い覚悟を宿した顔だった。ずっと隠してきた想いを告げる恋する少年少女のように、打算無き凛々しさと、青々しい不安定さを共存させたような顔だった。
「……弦華?」
俺が尋ねると、弦華は口元だけでニコリと笑った。
「……ねえ、秀叶。私よく、『軽そう』とか『あっさりしてそう』とか言われるんだけど、ほんとはずっと重くて、執念深い女なんだよ?」
突然の言葉に、俺は意味がわからず沈黙で応える。
「気になった人に話しかける時にはめちゃめちゃ緊張するし、好きになった人のことはとことん知りたいって思う」
静まっていく世界、緊張感が高まっていく。
「……中学三年生の頃、私は一本の動画に出会った。そこで、一人の歌手に出会ったの。……衝撃だった! 私は心から感動して、その歌が大好きになった。そこから私は、その人の動画を全部、何度も何度も繰り返し観て聴いてきたの。何度も何度も……。高校二年生になった今だってそう。その人の歌が、私の中に流れてるの……」
「…………」
「……だからね、そんな私がわからないはずなかったんだ」
風が全身を包み込み、時の流れと混ざり合う。
約束された解決は、予想とは少し違った方向へ——
「ねえ『秀叶』、どうして歌うのをやめちゃったの……?」
——偽終始。




