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隣人の舌打ちにより、全てを吹き飛ばされた男の闘争

作者: 葵はる
掲載日:2023/09/21

 それは、長編小説の執筆途中に起きた事であった。今まで一度も完成などさせた事ない長編小説。

 その爆誕まで残り僅かという時であった。起承転結で表すならば結の始まり辺りに差し掛かったところであろうか。


 物語はクライマックス。駄作ながらも自分なりに描く怒涛の展開に手に浮かび出る汗をパソコンに散らしまくっていた時である。脳がフル回転し、次々と描写が浮かび上がる。

 俺史上最高! ここまで来たら誰も俺を止める事はできないぜ!

 なんてコーヒー片手に感動的なワンシーンを描いていた時である。


 静けさに

 響き渡るは

 舌うっ「チッ」


 完全に手が止まってしまった。

 心臓が鷲掴みにされたような、唐突な息苦しさが俺を襲った。

 襲撃者は隣の席の人。

 武器はtongue。舌であった。


 唐突に西陽の差し込む図書館に鳴り響いたのは、憎悪のこもった舌打ちであった。

 その瞬間、まるで金縛りにあったように、俺のパソコンの打つ手は止まったのだ。

 自分が何を描いていたのか分からなくなり、いやもはや自分が何をしに図書館に来たのかすら忘れ


 なぜこの人はこんな公共の場で大きな舌打ちをするのか。

 ということしか考えられなくなったのである。


 控えめにいって今すぐに帰ってほしい。

 だけどそんな事を面と向かって言う勇気はない。こんな不機嫌オーラ全開の人に何かを言う勇気は持ち合わせていない。持ち合わせていたら今頃夏休みを全て消化して齧り付くように小説を書くのではなく、何かしら大学の部活にでも入って「うぉおおおらあああああ!」と咆哮を上げていた事だろう。


 今のコンディションで小説を書く事はできない。できる事は、ただ一つ。

 この瞬間、ライブ感を全て文字にしてストレス発散する事である。


 と打ち込んでいる隙に二度目の舌打ちがなった。

 はん! 大丈夫だ。今の俺はあんたの舌打ちのことについて描いてるんだよ。これなら自分が何をしてるかも忘れない。て、おい、やめろ。机をトントントントンと叩くな! マウスを雑に扱うな!


 移動したい。今すぐに移動したい。

 だが、コンセント付きの席は全て埋まっている。俺はここに留まるか、本日の執筆を諦めてゴーホームするか、どちらを取るかを迫られている。隣の人の苛立ちによってである。


 ものに当たるのは、よくない。

 自分が不機嫌な事を周りに出して、一体どうしてほしいというのだ?

「ほら〜! 不機嫌ですよ〜! ご機嫌とってください!」

 とでも言うのだろうか? 周りに気を遣わせ、機嫌が治れば何も無かったかのように話しかけてくる。まるで自分が嵐を起こしていたかなど忘れていたかのように。物に当たっているのだから。誰にも当たっていないでしょ? とでもいうように。こら! ペットボトルをどんどんするな!


 そっちの方が困るんだよ! まだこっちに当たってくれたなら、会話もできるし、ちゃんと何か言える。

 でも物とかに当たられたら触れづらいじゃん! というかこういう公共の場の見知らぬ人だったらこっちは何も言えないわけよ!


 返せよ! 名シーンのひらめきを!(そんなものは無かった)

 キーボードを強く叩くな! 足を踏むな! ああまた三度目の舌打ち!!


 こうなったらこっちもやり返すか? 戦争の幕開けか? 長編小説を幾度となく書き始め、半分くらいでエタってきた我が国のタイピング力を舐めるなよ! 貴様の舌打ちなどこちらの文字打ちでかき消してくれるわ!


 落ち着け。

 それは他の人の迷惑になる。


 というか、、見えていないのだろうか? 他の人の存在が。

 これが会社ならまだわかる。だがここは図書館ぞ? 市営の、純粋な市民達が集う図書館ぞ?

 そこに舌打ちを持ち込むとは、何事ぞ?


 一体何があったと言うんだ。こちとら想像を働かせる事しかできない。

 いや、ちょっと待て。何が「そっか〜 そうだよな〜」だ。一体誰と喋っているんだ。隣の俺の存在は見えていないのか? ああ! マウスがうるさい!!


 絶対にこいつをキャラクター化して、俺の小説に登場させて主人公にボコボコにさせるんだ。

 そんな決意を描いているうちに慣れてきた。今ではうるさいキーボードの音がリズミカルなピアノの旋律に……


 いや、うるせええええええ!!! そんな等間隔にどこのキーボードを押しているんだ!?

 deleteか? deleteなのか? deleteは長押しした方が早く消えるぞ! そんなことは分かっているだろうけどさ!


 すまない。こんな集中力の浅い人間で。隣の人の舌打ち一つで全ての物語が吹き飛んでしまうような、小さな小さな人間で。すまない。こんなんだから長編小説が書けないんだ。


 強くなれ。隣の人の舌打ちなんて気にならないくらい。

 あ、端っこの席の人が荷物をまとめている。

 あの席なら、舌打ちは気にならないかもしれない。


 移動してきた。見事に席取り合戦に勝利する事が出来た。

 そしてすかさず舌打ち兄貴の隣にも、いたいけな少年が座っている。アーメン。


 うん、結局は環境だね。いまなら再び長編小説が書けるような気がする。

 舌打ちが耳に入ってきたり、大きなクラクションを聞くと、どうしても心がブルーになる。

 それまでとても美しく見えていた空の青さが、沈んだ色に見えるくらい、心が曇ってしまう事がある。


 まあそんな時は、自然災害にあったとでも思って、そっと離れるしかないのだろう。

 そうやって、自分のご機嫌は自分で取るしかない。

 じゃないと自分もいつか、公共の施設で大きな舌打ちをしてしまう日が来るかもしれない。

 そんな日が来ない事を願って、そして、夏休み中に何とか長編小説が完成する事を祈って。


 再び、執筆に向かいたいと思う。

 次からは耳栓も持ってこよう。

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