前編
それは、ウェットティッシュで手を拭きながら、海の青さに目を奪われている時のことだった。
「釣れますか?」
急に声をかけられて、驚いて振り返る。いつの間にか私のすぐ後ろに、見知らぬ男が立っていた。
私が釣りをしていたのは、長い堤防のほぼ突端だ。周りには誰もいなかったし、誰か来れば足音や気配でわかるはずだが……。
気づかなかったということは、よほど私がボーッとしていたのだろう。
私に話しかけてきたのは、短い白髪頭の老人だった。
茶色い半袖シャツの上に、緑色のフィッシングベストを羽織っているが、釣り道具の類いは一切持っていない。釣りをしに来たというより、その下見に来たという感じだった。
「いやあ、見ての通りです」
苦笑いしながら、私はクーラーボックスを開けてみせる。
入っているのは、用意してきた氷ばかり。今日の釣果はゼロだった。
「おやおや……」
老人が目を丸くする。
もしかすると、ウェットティッシュを使っているのが見えて、それで誤解して声をかけてきたのだろうか。ちょうど魚を釣り上げて手が汚れたから拭いている、と思われたのかもしれないが……。
実際には魚ではなく、生き餌――私が使っていたのはアオイソメ――で汚れたのを拭いていただけ。もちろん私だって、いちいち餌をつける度に手を綺麗にしたりはしないが、そろそろ今日は終わりにしようと思って、手を拭いていたのだ。
わざわざ説明する気はないけれど、黙っているのも何なので、当たり障りのない言葉を口にしてみる。
「やっぱり海釣りは難しいですね。天気も良くて、景色も良くて、絶好の釣り日和に思えたのに……」
川や湖ならば、だいたい朝や夕方など、魚がよく釣れる時間帯は決まっていた。季節によって少しは異なるが、あくまでも少しだけ。でも海はそれが大きく異なるし、さらに潮の満ち引きも影響してくるはず。
とりあえず、この場所自体は悪くない、というのが今日一日の手応えだった。天秤仕掛けで投げ釣りをしたが、ほとんど根掛かりしなかったのだから、水底の状態は良好に違いない。釣りやすいポイントであることは確かだが……。
「……誰もいない堤防なのは、釣れないからですかね?」
逆に私の方から尋ねてみると、老人は微笑みながら首を横に振った。
「そんなことないですよ。良い堤防ですよ、ここは」
彼は私の釣竿に目を向ける。竿の長さやリールの大きさ、糸がどれくらい出ているかを見れば、その先にある海中の仕掛けも想像つくのだろう。
「カレイもキスも釣れますし、アイナメやメゴチなんかも混じりますね」
と、親切に教えてくれた。
ならば、私の仕掛けも餌も間違っていなかった。また釣りに来よう、という気持ちが強くなる。
「お兄さん、見かけない顔ですが……。今日は遠くから?」
「いや、最近この近くに越して来たばかりで……」
すっかり中年の私だが、老人から見たらオジサンではなく子供扱いになるらしい。
「……堤防が目についたのでね。とりあえず竿を出してみよう、と思って来てみたのです」
「好きなのですね、釣りが」
にっこりと笑う老人。
道具こそ持たぬものの、釣り人の格好で来ているのだから、彼も私と同じではないか。
そう思ったが、見知らぬ老人に「オマエモナー」と返すわけにもいかず、適当に答えておく。
「ええ、下手の横好きというやつです」
「ここへ通うのでしたら、また会う機会もありそうですね」
そう言って老人は、くるりと背中を向けて、立ち去るのだった。