【番外編】主よ、人の望みの喜びよ⑦
「うち、ずっと夏樹くんが春香ちゃんのこと好きなん知っとって、夏樹くんが目覚めた時に『自分の想いはきちんと伝えた方がいいと思う』って、うちが言った。冬弥くんの想いも分かっとったけど、不安だったフランス留学の背中を押してくれたのは夏樹くんじゃったけぇ、今度はうちが押さんといけんと思って」
いつも穏やかな口調の芹澤が、早口で捲し立てる。俺は呆気にとられた。芹澤が謝る必要がどこにある?
「ごめん」と頭まで下げ始めた芹澤に、俺は「落ち着け」と電子キーボードを担ぎ直した。
「確かに夏樹に井上を渡してしまったのは惜しいけど、後悔はしてない。逆に納まるところに納まってホッとしてる」
危うく自分の手で好きな人を苦しめるところだったのだ。夏樹に自分の気持ちを井上に伝えてもいいかと訊かれていなければ、井上は夏樹への想いに蓋をしたまま苦しんでいたかもしれない。それを回避できたのだ。結果オーライだろう。
芹澤は驚いた顔をした。そして、白いワンピースと同じようにふわりと笑った。
「冬弥くんはやっぱり神様みたいじゃね」
「嫉妬まみれの神様か」
「ふふふっ」
外に出ると、台風が近付いているらしく、曇り空に風が吹いていた。
病院の出入口には常駐しているタクシーが列を連ねており、先頭のタクシーに向かって手を挙げると、後部座席のドアが開いた。
トランクを開けてもらい、芹澤が引いていたキャリーバッグを乗せる。電子キーボードは手で持ちたいとのことなので、芹澤が後部座席に乗ったあとに手渡した。
「それじゃ、気を付けて帰れよ。あとピアノ、頑張れよ」
「うん、ありがとう。冬弥くんもお医者さん、頑張ってね」
発車したタクシーを、見えなくなるまで見送った。
ふう、とため息をひとつ吐く。
遠くで救急車のサイレンの音がした。
今日も外来の予約はいっぱいで、診なければいけない患者はたくさんいる。失恋に打ちひしがれている暇はない。
「とりあえず働くか」
そう独りごちて、自分のデスクがある医局へ踵を返した。
Fin.




