【番外編】主よ、人の望みの喜びよ⑥
「悪い芹澤。井上と夏樹にも見送りに来て欲しかったよな」
サロンでの演奏会後、夏樹の病室から出てきた芹澤に謝罪した。大きなキャリーケースを引く彼女は、拠点にしているフランスへ帰る。
あろうことか俺は、井上と夏樹を二人きりで話させるために芹澤に何の打合せもなく、勝手に見送りを断ってしまった。俺の見送りではないのに。
しかし芹澤は昔と変わらない柔和な笑みで、首を横に振った。
「大丈夫。二人とは毎日顔合わせとったし、冬弥くんに見送ってもらえるだけで十分」
それより、と芹澤は続ける。
「冬弥くんは、春香ちゃんのこと、もうええん?」
「……いいかどうかと訊かれたら、よくはないな」
多分、俺は当分の間、未練がましく生きていかなければならないと思う。
東京での夏樹の主治医は俺なので、これから退院しても薬やら定期健診やらで夏樹とは顔を合わせるだろう。夏樹を見るたびに井上のことを思い出さざるを得ないことくらい想像に難くない。
「芹澤は、俺をどうやって諦めた?」
こんなことを訊くのはおかしいと思ったが、幼馴染だし結婚するらしいし、参考までに訊いておきたいと思った。芹澤はエレベーターのボタンを押して、前髪を触った。
「んー……手早く言えば、新しい恋をした、かな」
「……俺には難題だな」
井上を諦めようと思ったことは数知れずあり、違う人に目を向けてみようとしたことはあったが、井上以上にいいと思える人とは巡り合わなかった。
芹澤は「すぐには無理じゃと思うよ」とエレベーターを見上げて言った。
「二十年片想いしとって、一度は実った恋じゃもん。しばらくは想っとってもええんじゃないかな」
エレベーターが開いて何人かが降りてきた。誰もいなくなった箱に芹澤が先に入ってボタンを操作する。電子キーボードをどこかにぶつけたりしないように注意しながら乗り、芹澤の斜め後ろに立った俺は、エレベーターのドアが閉まると同時に口を開いた。
「フランスに行って随分と大人になったな」
高校生までの芹澤しか知らない俺は、見た目も大人っぽくなった幼馴染に正直驚いていた。プロになってから聴いたピアノの音も、表現の仕方も、考え方も全てが白衣の胸ポケットに仕舞ってある写真の頃とは違っていて、人はこんなに変われるのかと思った。
「何言っとん冬弥くん。うちらもう二十七歳で? 冬弥くんも立派な大人よ」
理解力は学生時代と変わらないらしい。中学生の時に俺がポロっと『プロになれば』と言ったことを真に受けて、本当にプロになった芹澤らしいけど。思わず苦笑すると、芹澤は首を傾げた。
「うちずっと疑問に思っとったんじゃけど、なんで恋人同士になったのに、冬弥くんは春香ちゃんのことを名字で呼ぶん?」
「夏樹と違う呼び方がよかったから」
「わぁ即答じゃ。嫉妬深いところはちっとも変わらんね」
「そうだ、悪いか」
一階に着いたエレベーターのドアが開く。お先にどうぞ、と芹澤に促されたので、頷いて先に出た。井上と寄り添って眠った外来待合室の椅子には、男の子が座っていた。
「冬弥くん、ごめん。夏樹くんの背中押したの、うちなんよ」
出口に向かう途中で、後ろから唐突に謝られた。夏樹の背中を押した? 意味を理解し損ねて眼鏡のブリッジを指で押し上げた。




