【番外編】主よ、人の望みの喜びよ⑤
だから「俺のそばじゃなくて、夏樹のそばにいてほしい」なんて口走った時、俺はこの世の中で一番の大馬鹿野郎だと思った。
「わたし、黒瀬くんのこと、好きだよ?」
しっかりと目を合わせてそう言った井上を、壊れるくらいに抱きしめたいと思った。どうしてこんなに愛しい人を、自分から手放そうとしているのか、自分でも分からない。
「知ってる。あと、井上が夏樹を忘れられないのも、知ってる」
それは、ほとんど自分に言い聞かせるように発した言葉だった。しかし、井上は硬直して顔から血の気を引かせる。あぁ、ここまでか。
白衣の内ポケットに入れた写真を取り出す。
「わざと実家の机の上に置いたんだ」
高校卒業式の日、最後の春夏秋冬カルテットの集合写真。夏樹から焼き増しをもらって、すぐ家の押入れに仕舞っていた写真だった。親に押入れを整理した時に見つけられ、手渡された。燃やすことが出来なかったのは、初恋の人が映っていたからだ。
その人の目線が、俺に注がれていなくても。
「井上の一番は、夏樹だよな」
──左端の井上は、ピースをしながら横目で隣の夏樹を見ていた。
病気が完治したと言った夏樹に『必要ないと言われた気がしてどうしたらいいか分からなくなった』と言われて、助けを求められていると思った。俺は、逃げたがっていた井上の手を取って、一緒に逃げようと東京行きに誘った。苦しそうにしている好きな子を、自分が助けたかったのだ。
多分、井上と夏樹にとってあれが人生の岐路だった。
もし、俺があの日井上の手を取らずに『夏樹に寄り添ってやって』と言っていたら、二人はこんな遠回りをせずに済んだかもしれない。
そもそも夏樹が井上と同じ大学を選んだ時点で、気付いてやるべきだったのだ。井上をそばに置いておきたいという、夏樹の想いに。
「好きな人を幸せにしてやれないからって諦める気持ちは、正直俺には全く理解できない。俺は井上を幸せにする自信があるし、ほかの男のところになんて行ってほしくない」
ポロポロ出る本音。あぁ、最後まで格好悪いな。
「でも、井上はどっちかっていうと、人に幸せにされるよりも人を幸せにするタイプだと思う」
自分で言ってて腑に落ちた。そうか、井上は俺に幸せにしてもらうよりも、夏樹を幸せにする方が合ってる。
井上は目を赤くさせ、今にも泣きそうな顔をする。でも泣かない。そういう気の強い所もグッとくるな、なんて思った。
「もっと単純に考えてよ。一番そばにいたいのは、誰?」
ここで『黒瀬くん』なんて言われたら、俺の努力は台無しだ。俺を選んだことを後悔させるくらいに抱きしめようと思った。
井上の口から出たのは、俺じゃない幼馴染の名前だった。
「夏樹の、そばにいたい」
本当はショックなはずなのに、俺はそれを聞いて満足した。解答用紙に書かれた答えに丸を付けるように、正解だと頷いた。
「これで最後」と言って井上を抱きしめたのは、ほとんど無意識だった。俺じゃなくて夏樹を選んでも、結局は抱きしめたかったのだ。
「好きになってくれてありがとう。すげぇ幸せだった。今度は夏樹を幸せにしてやって」
本当は離したくなんてない。このまま一生離れたくなんてなかった。
二十年も忘れられずにいて、やっと実った初恋を自分から手放すなんて、医学部をストレートで卒業して最短で医師になるほど頭のいい奴のすることじゃない。
馬鹿と天才は紙一重というのは、俺の為にある言葉だった。それと、初恋は実らない。
「じゃあ芹澤の演奏、聴きに行こう」
背を向けて先に病室を出る。大きなため息をひとつ吐いて、俺はサロンへ向かった。




