【番外編】主よ、人の望みの喜びよ④
少し冷静になって考えると、さっきのカミングアウトは『俺に井上を譲ってほしい』ということなのではないか、と思った。ふざけるなよコノヤロー。
「お前は芹澤が好きなんだろ」
つい強い口調で言ってしまった。夏樹は指先に付けた血中酸素濃度計に目を落として小さく首を横に振った。
「芹澤のことは、恋愛の意味で好きじゃったわけじゃない。友だちとして好きじゃった。本当に恋愛の意味で好きじゃったのは、春香」
俺は無意識にため息をついていた。なんで今それを言うんだよ。
毎日見舞いに来る井上の顔が脳裏を掠める。
笑顔は当分見ていなかった。ただ、夏樹のそばで手や足が固まらないようにマッサージしたり、身体を拭いてやったりする表情は、小児科で子どもたちと接していた時と同じで、また看護師になって俺とペアを組んでくれないかな、なんて思った。
「……なんで芹澤を好きなフリをしたんだ」
理由によってはマジで殴ってやろうと思った。夏樹は俺を真っ直ぐ見て答える。
「いつ死ぬか分からん俺が、春香を幸せになんて出来んと思った」
殴る気力は失せた。アホらしかったからだ。病気を言い訳にして、好意を寄せてくれている子に対して不誠実な対応をしたのだ。こんな奴に、俺の隣を歩いてくれている井上を渡せない。
「俺は井上を幸せにする自信がある」
そう言うと、夏樹はホッとした表情をした。
「うん。俺も冬弥なら安心じゃわ。春香を頼む」
上から目線なのが非常に気に食わなかったが、井上を渡せと言われなかっただけ良しとする。まぁそう言われてもガン無視するけど。
すると夏樹は静かに話し始めた。
「……昔さ、春香に『死ぬのが怖い』って泣いたことあってさ。そん時春香が『ずっとそばにおっちゃる』って約束してくれてさ。俺、それがすっげぇ嬉しかったんよね。多分春香は覚えてないじゃろうけど」
約束。
俺はその言葉を井上の口から聞いたことがあった。あれは確か小児科のローテート研修に入った研修医時代のことだ。夏樹と同じ疾患で、たった八歳にしてこの世を去った岡崎颯太。
気丈に振る舞っていた井上に『我慢しなくていい』と声を掛けると、泣き崩れたあの時、颯太に『ずっとそばにいると約束した』と言っていた。その後に井上は『夏樹と一緒だった』と言って過呼吸を起こした。
俺はてっきり、『夏樹と同じ疾患だったのに』助けられなくて泣いたのだと思っていた。違ったのだ。『夏樹と同じ約束をしたのに』助けられなくて泣いたのだ。
それに気が付いた時、俺は愕然とした。井上の中にはずっと夏樹が存在しているのだ。俺が井上を忘れられないように、井上も夏樹を忘れられないでいる。似た者同士の俺たちは、最強カップルだと思えるのに。
「……自分の気持ち、春香に伝えてもええ?」
もう嘘ついて後悔したくない、と夏樹は背筋を伸ばした。
俺はすぐには頷けなかった。実はずっと両想いだったなんて井上が知ったら、俺の元から離れていくに決まっている。俺のことをちゃんと考えてくれて、ようやく想いが実ったというのに、そんなの嫌だ。
俺の前で泣きじゃくった井上。井上の前で泣いた俺。
お互いに、お互いを見せ合った俺と井上。
「……いいよ」
一種の賭けだった。井上は俺のことを好きでいてくれていることは、ちゃんと分かっていた。『黒瀬くんが好き、です』と色気のないファミレスで、顔を真っ赤にして俺に応えてくれた井上は、本物だ。それくらい分かっている。
井上は俺を選んでくれる。
そんな根拠のない自信だけが、俺を頷かせた。




