【番外編】主よ、人の望みの喜びよ③
肩を叩きながら呼びかけるが反応はない。脈動と呼吸を確かめるが、どちらも確認できなかった。
「くそ、心肺停止だ。きみ、救急車呼んで。井上、入り口にあったAED持ってきて」
AEDが備え付けられていたのは、この居酒屋に入った時に確認していた。
胸骨圧迫──心臓マッサージをしようと夏樹のワイシャツを力一杯裂いて胸部を露わにする。女顔も井上も動揺しているのか突っ立ったまま動かないので「早く!」と声を荒げた。
「はい!」
ようやく動いたのが女顔で、井上は目の色を失ってこちらを見ているだけだった。俺は夏樹の心臓目がけて手を組んで垂直に押し始める。
「一、二、三……」
ふと颯太のことを思い出した。井上が颯太と夏樹を重ねているのは明白で、しまいには耳を塞ぎ始めた井上に、俺は自分の意思とは関係なく叫んでいた。
「しっかりしろ春香っ!」
こんな形で愛しい人の名前を呼びたくはなかったが、大切な人の好きだった人を助けられなくて憔悴する井上も見たくはなかった。俺は畳みかける。
「今夏樹を助けられるのは、俺とお前しかいない!」
そんな乱暴な言葉も使いたくはなかった。『お前』なんてもってのほかだ。けれどそれで井上の目の色が変わった。絶対に助けるんだという、看護師時代と同じ目だった。
ああ、やっぱり一緒に仕事がしたかったな。
俺と心臓マッサージを代わって必死に夏樹を助けようとしている井上を見て、そう思った。
夏樹は一度意識を戻したが、結局そのまま意識を失い、一ヶ月と少し経って目を覚ました。
夏樹が昏睡状態に陥っている間、井上は毎日夏樹の様子を見に来ていた。それは芹澤も同じで、主治医の俺も時間があれば夏樹の病室に足を運んだ。
目が覚めてからも同じ頻度で病室を覗くものだから、夏樹が「俺は子どもかよ」と不服そうに笑った。
本来なら看護師がやる体温測定やら血圧測定やらのいわゆるバイタル測定を、自分がやると名乗り出て測定している時だった。
「なぁ冬弥」
「なに?」
「俺、昔から春香の事が好きなんじゃけど」
突然のカミングアウトに面食らった。何が言いたいのか掴み損ねたので、とりあえず同調しておいた。
「……俺もだけど」
夏樹が井上のことを好きだというのは、俺が井上に一目惚れした時から薄々感じていた。当の本人は芹澤が好きだとか口では言っていたが、井上をずっと見てきた俺にはその視線の先の夏樹のことも自然に目に入るわけで。
夏樹の視線は芹澤ではなく、井上だった。
どうして芹澤が好きだと嘘をついていたのか、俺には全く見当もつかなかった。だって、井上は夏樹が好きだと言っていたし、それで夏樹も井上が好きなら両想いなのだ。俺が井上となりたかった関係だった。それを自ら投げ出すなんて、俺には到底理解できない。




