【番外編】主よ、人の望みの喜びよ②
「特に意味はない。気になるんなら冬弥も春香って呼べば?」
シレっとそう言うもんだから、喧嘩売ってんのかと思った。しかし夏樹は「俺も芹澤のこと名前で呼びたいんじゃけどなぁ」などと言うので、そこで気が付いた。
井上は他三人の中で俺だけ『黒瀬くん』と名字プラスくんづけで呼ぶのだ。
夏樹は夏樹で、芹澤は秋菜。
反対に井上のことを名前でなく、名字で呼ぶのは俺だけだった。
つまり、カルテットの中でお互いに名字で呼び合うのは、俺と井上の二人だけだったのだ。
それに気が付いた時、特別だと思った。俺と井上だけの名字呼び。
それから井上に『黒瀬くん』と呼ばれるたび、俺の名字は宝物のようになった。本来ならお互い呼び捨てで呼び合う方が距離が縮んだように思うのだろうが、俺は夏樹と違うということを提示できればそれでよかった。
井上が気付いていたのかどうかは知らないが。
ただ一度だけ、井上のことを春香と呼んだことがある。
それは恋人同士になって居酒屋デートをした時だ。
どうしても朝まで一緒にいたくて(本当にただ隣にいて欲しかっただけ)、井上の家に泊まりに行ってもいいかと訊ねると、顔を真っ赤にして頷いてくれた。もうそれだけで抱きしめたくなるほど愛おしかった。
正直初恋なんて実らないと諦めていて、でも自分の気持ちは伝えたくて、井上が看護師を辞めて二年、再び俺の前に現れた時、神様は俺の味方なんだと本気で思った。
さらには俺に『会いたくなった』なんてことを言ってくれて(クラクションで聞こえなかったなんて嘘だった)、夏樹が井上の前に現れたことがきっかけだとは分かっていても、俺のところに来てくれたというのが嬉しかった。
ましてや俺の彼女になってくれるなんて、俺はもうじき死ぬんだとさえ思った。
『絶対、絶対大事にする』と言ったので、酔って井上の家に押し掛けるなんてことはしたくなかった。最初の一杯は水にして、お腹に食べ物をいくらか入れたところでアルコールを入れようとした。
「友川先輩⁉」
近くで叫び声がしたのはその時だった。井上と顔を見合わせる。
「誰かっ!」
助けを求める声に、体が自然と動いていた。
「どうしました?」
隣の部屋を覗き込んで、目を瞠った。胸を押さえて苦しそうにしている人の茶色に染められた髪の毛は細く、ちらっと見えた右目の下には三つのホクロが点在している。
一瞬で夏樹だと分かった。どうしてここに、などと思っている間もなく、医師としてどうするべきか瞬時に判断する。
夏樹は心臓に病を抱えていて、胸を押さえて苦しんでいる。心臓発作を起こしている可能性が高い。仰向けにしたりすると呼吸困難がひどくなる――
助けを求めてきた女顔の男が夏樹を横にしようとした。
「待て、倒すな!」
制止もむなしく仰向けに倒される。その時井上が息を呑んだ音がした。
痙攣し始める夏樹。俺は靴のまま座敷に上がり、女顔の人を押しのけて夏樹に駆け寄った。




