【番外編】主よ、人の望みの喜びよ①
俺が井上春香と出会ったのは、小学校一年生の入学式の日だった。
元々生まれは岡山で、小学校に上がるとともに親の地元の広島へ住居を移し、友だちもいない中最初に話しかけてきたのは、肩までの長さの髪をウサギのヘアゴムで二つくくりにした女の子だった。
「めがね掛けとるけど、目が悪いん?」
体育館での入学式を終え、親と一緒に教室に上がる途中だった。突然肩を叩かれ、顔を覗き込まれた俺は、反応が遅れた。
「こら春香。急にごめんね、ビックリしちゃうよね」
話しかけてきた女の子の隣を歩いていた母親が、人の良さそうな顔で俺に言う。人見知りだった俺はどうしたらいいのか分からず、自分の隣の母親に身体を寄せた。
「冬弥、挨拶くらいしたら? ごめんなさい、うちの子人見知りで……」
「いえいえ、反対にうちの子は誰にでも話しかける子で……」
母親同士が仲良く話し始めた。放置された俺はどうしたらいいのか分からない。女の子の名札を見ると『いのうえ』と書かれていたので、そこで名字を知った。
すると、モジモジしている俺を見ていた井上が手を挙げて「夏樹くーん!」と誰かを呼んだ。
「春香ちゃん!」
呼ばれたのは男の子で、人懐こそうな顔でゆっくり歩いてこっちに来る。そいつの名札は『ともかわ』。人見知りって言ってんのになんか増えた。
「春香ちゃん、どしたん?」
そいつは井上よりも背が低く、右目の下に三つのホクロが付いていた。
「この子、恥ずかしがり屋さんなんじゃって。夏樹くん同じ男の子じゃけぇ、お友だちになったら?」
目をクリっとさせて夏樹は俺を見る。
「あれ、初めましてじゃね。僕、友川夏樹っていうんじゃ。よろしく」
細い髪の毛を揺らして俺に微笑みかける夏樹。俺は小さく頷いて「黒瀬冬弥です」と名前だけ名乗った。
「黒瀬くんっていうの? わたし、井上春香。よろしくね」
そう言って笑った井上に、俺は一瞬で心を奪われた。後にも先にも一目惚れという瞬間に遭遇したのはこの時だけで、初めて女の子に恋をした瞬間だった。
井上は俺の初恋だった。
一瞬でキラキラと輝き、感じたことのない感情に目眩がする。誰かをこんなに可愛いなんて思ったのは、初めてだった。
俺はそれから気付けば井上を目で追っていて、夏樹に笑いかけるその笑顔を、俺だけに向けて欲しいなどと思ったりしながら、中学生に上がった。
「春香ぁ」
「なに、夏樹」
井上と夏樹は、小学生の頃はお互いに『くん・ちゃん』付けで呼んでいたのに、いつの間にか呼び捨てで呼び合うようになっていた。そのことがどうしても気に食わなかった。
「夏樹」
「どしたん冬弥」
俺は井上が芹澤と話している隙を見て、夏樹を呼び寄せる。
「井上のこと、なんで呼び捨てにしとん」
この頃から俺の嫉妬心は表に出るようになった。春夏秋冬カルテットの四角関係も顕著になってきて、隠す必要性を感じなくなったこともあったんだと思う。
夏樹は女子みたいに小首を傾げた。
「なんでって言われても……なんでじゃろ?」
逆に訊かれてものすごく腹が立った。名前で、しかも呼び捨てで呼び合うというのは、この頃の俺にとって、親しい間柄だけで行われる、特別な存在だという認識だった。男同士はともかく、男女間においてのその言動は、異性交遊──つまりは恋人同士しかしないことだと思っていたのだ。




