一番①
夏樹が退院して半年後の三月。
「おーい、夏樹ー。起きてるー?」
隣の部屋の鍵を開けて中に入ると、芋虫のように布団にくるまってもぞもぞしている物体が転がっていた。
「ちょっと、あんた今日受診日でしょ! 早く起きろ!」
「無理、寒い。代わりに春香が行ってきてぇ」
「ふざけてないで早く! 黒瀬くんも忙しいんだから予約に遅れたらダメでしょ!」
「ええわあんな奴待たせとっても。ちゅーか、往診しとらんの? うちに来てもらえばええが」
「あんた医者をなんだと思ってんの。あんまり舐めたこと言ってたら怒るよ?」
「すぐほっぺたつままんでぇぇ痛いぃぃ」
「だったら早よ起きろ!」
わたしは夏樹のお世話係のようなことをしていた。歯磨きを促し、着替えを手伝い、布団を片付ける。
「春香ぁ」
「なに?」
「ありがと」
へにゃりと笑うこの顔ひとつで許せるのだから、惚れたもん負けだよな、といつも思う。ただここでわたしが頬を緩ませれば調子に乗るので「はいはい」とあしらってそっぽを向いた。
「はいオッケー。また薬出しとく」
診察室で黒瀬くんは、夏樹の胸に当てていた聴診器を耳から外し、首にかけた。
「っていうか診察室にまで一緒に入ってくるって、井上は夏樹の母親かよ」
呆れて笑う黒瀬くん。
「わたしもたまに自分が夏樹のお母さんなんじゃないかと思う時がある」
大真面目に答えたら、黒瀬くんは銀縁眼鏡を光らせた。
「夏樹が嫌になったらいつでも俺んとこおいで」
すると夏樹がわたしと黒瀬くんの間に立ちはだかった。
「おい、冬弥は春香を諦めたんじゃろ」
「そんなこと言ってねーし」
「芹澤がフランスに帰る日、言うとったが。『お前らが中途半端だから俺が諦めきれないんだ。俺のために早くくっついてくれ』って」
あの日サロンで黒瀬くんが夏樹に何か耳打ちしていたが、そんな話をしていたなんて。黒瀬くんは「そうだっけ」ととぼけ顔をした。
「隙あらば付け込むし」
「隙なんてないわ。俺は春香がおらんと生きていけんし、春香も俺のそばにおってくれるって言ったし。な、春香」
本人目の前にそんな会話しないで欲しい。黒瀬くんの後ろにいる看護師さんも苦笑いしていて、恥ずかしくなったわたしは夏樹の腕を掴み、診察室の出入口へ引っ張った。
「はいはい言った言った。黒瀬くん、ありがとね。ほら、次がつまってんだから行くよ」
「わ、ちょっと待って春香っ。冬弥、またな!」
「お大事にー」
夏樹は月に一度、こうやって薬を貰いに黒瀬くんの外来を受診する。三人でああやって冗談を言い合えたりできる貴重な時間でもあった。




