後悔と嘘⑳
「……名残惜しいけど、そろそろ行こうかな」
秋菜がキャリーバッグを自分の方に引き寄せた。もうそんな時間か。楽しい時間はあっという間だな。
「空港までタクシー?」
「うん」
「じゃあ下まで送るよ」
「俺も行く」
夏樹は車椅子を自分で動かして出入口を向いた。わたしが秋菜の電子キーボードを持とうとすると、黒瀬くんに取られた。
「俺が行く」
「あ、じゃあみんなで見送りに……」
「俺外来あるから一階に下りるし、ついでだから」
黒瀬くんが意味ありげな視線を秋菜に送った。それを汲み取ったのか、秋菜はニッコリ笑った。
「春香ちゃん、大丈夫だよ。一階に行ってまた戻ってくるの面倒くさいじゃろ。夏樹くんも車椅子で大変じゃろうし、ここでいいけぇ」
「と、いうわけで、お前らは二人で話をしろよ」
黒瀬くんはそう言って、先に病室から出て行ってしまった。
「え、ちょっと待ってよ……」
変な気を遣わないでほしいんだけど。チラ、と夏樹を見ると、彼は閉められたドアを静かに見つめていた。
「春香ちゃん、夏樹くん。色々ごめんね。そんで、ありがとう。うち、頑張るけぇ」
秋菜は真っ直ぐ前を向き、地に足をつけて立っている。ピアニストを続けることを決めた秋菜は、多分これから大変な思いをすることもあるだろう。それでも自分の意志で決断した彼女は、誰よりも強い。だからわたしは頷いた。
「うん、頑張って。でも、辛くなったらいつでも頼ってよ。春夏秋冬カルテットは、四人なんだから」
「芹澤、俺からもありがとう。寝とる間、芹澤のピアノの音、聞こえとった。その音がなかったらまだ起きとらんかったと思う。ホンマに、ありがとう」
「春香ちゃん……夏樹くん……」
離れたくないという思いが三人を支配する。でも、もうわたしたちは大丈夫だ。離れていても、大丈夫。
「……じゃあ、また」
「うん。元気でな」
「気を付けてね」
笑顔で別れを告げた。秋菜が病室を出てから二人っきりになった部屋に、空気の音だけが漂う。
「……冬弥のやつ、ずっとドアの前に立っとった。名残惜しいなら早々に出んかったらええのに」
そう言って夏樹は車椅子の足板を足で上げて、立ちあがった。
「春香」
わたしの前に立った夏樹は、小首を傾げてわたしを見下ろしてきた。
「俺、来週退院できるんじゃって」
「え、うん。さっき聞いたけど……」
見上げると、夏樹に手を取られた。温かい手が、わたしの手を包み込む。ひどく安心する温度に、心地よい鼓動の音が耳元で鳴った。
「退院しても、そばにおってくれる?」
ああ、この捨て犬みたいな幼馴染に、わたしは昔から弱いんだよなぁ。
わたしは口角を上げて微笑んだ。
「ずっとそばにおっちゃるけぇ」




