後悔と嘘⑱
体育館程の大きさのサロン中央に、大きなグランドピアノが置いてある。なんでも院長が音楽好きらしく、たまにピアニストを呼んで演奏会を開いていた。今日の主役は幼馴染の秋菜だ。観客は飛鷹総合病院に入院中の患者さんと職員。車椅子の方や子どもやご老人、付き添いの理学療法士さんなどもいて、サロンはなかなか賑わっていた。
入口でキョロキョロしていると車椅子に乗った夏樹は、十列に並べられたパイプ椅子の後ろの中央にいた。茶色に染められた猫っ毛は、てっぺんが少し黒くなってプリンみたいだ。その後ろに黒瀬くんが立っていて、何やら耳打ちをしている。黒瀬くんを見上げた夏樹は、目を見開いていた。
「井上」
黒瀬くんは夏樹に背を向けてわたしの元へ歩いてきた。
「夏樹の後ろにいてやって」
すれ違いざま肩に手を置かれた。温かいその手は、いつもわたしに安心感を与えてくれた。
「うん。ありがとう」
黒瀬くんはそのまま壁際まで行ってしまった。わたしは夏樹の後ろに立つ。
「夏樹」
後ろから声を掛けると、夏樹は頭を後ろに倒し、顔だけでわたしを見上げた。
「俺、来週退院できるらしい」
「うん。おめでとう」
「ありがとう」
夏樹が続きを言おうと口を開いたと同時に、マイクのスイッチが入る音がした。
「本日は循環器科医の黒瀬冬弥先生のお知り合いで、フランスのパリを拠点に演奏活動をされております、ピアニストの芹澤秋菜さんが演奏してくださいます」
白いワンピースを着た秋菜が、颯爽とピアノの前に現れてお辞儀をする。マイクを受け取った彼女は、自己紹介と曲の紹介を始めた。
「初めまして。ピアニストの芹澤秋菜です。本日はお招きいただきありがとうございます……」
穏やかな声がサロンに響き渡る。夏樹は秋菜を一瞥して、再びこちらを向いた。小さく手招きされたので、耳を近付ける。
「春香の本当に好きな人って、誰?」
ぎょっとした。思わず黒瀬くんを振り返る。銀縁眼鏡の彼は壁に背を預け、腕を組んで澄まし顔だった。さっき夏樹に何を吹き込んだんだ。
「春香」
夏樹が嬉しそうに自分の耳を指差して早く言え、と促してくる。わたしは観念したように小さくため息をついて、目の前の幼馴染の耳たぶを軽く引っ張った。
「友川夏樹」
夏樹は満足そうに頷いて、前を向いた。
「芹澤……俺は超絶感動した……生きててよかったって、マジで思った……」
秋菜の演奏会が終わって、夏樹の病室に戻ってきていた。夏樹はベッドに戻る時間も惜しいのか、終演してから車椅子に乗ったままずっと同じことを繰り返し呟いている。
「夏樹くんにそう言われると、ピアノやっとってよかったって心の底から思うよ」
秋菜もまた、同じ返しを繰り返していた。多分もう少しで秋菜はフランスへ帰らなければならないので、それが寂しいのだろう。わたしはそんな二人をただ頷いて見ていた。
オーケストラとの共演の時のように、わたしは秋菜の演奏を聴いてまた泣きそうになっていた。耳馴染みのある曲を例のごとく流麗に弾く姿に、感動以外の感情は湧いてこなかったのだ。
「芹澤、ボランティアでありがとな。患者さんたちも元気出たって言ってた」
「こちらこそ声掛けてくれてありがとう。すごくいい経験が出来た」
演奏会後、秋菜は色々な患者さんに話しかけられていた。『感動した』とか『治療頑張ろうって思えた』とか、ほとんどの人が涙を流していたように思う。いつかわたしが『セラピストとか向いてる』と言ったことがあったが、まさに今日がそれだった気がする。多くの人の心を動かし、前向きにする秋菜のピアノ。出会えて本当によかった。
「なんか、春夏秋冬カルテットみたいじゃった」
夏樹が懐かしむような表情で漏らした。その感想は、わたしも感じていたので便乗する。
「わたしもそう思った! なんか、一曲ずつがみんなみたいで、なんていうか、その……」
表現したいのに、適切な言葉が出てこなくてムズムズする。あー悔しい。秋菜は「気付いてくれたんじゃ」と嬉しそうにふわっと笑った。




