後悔と嘘⑰
「井上、座って」
黒瀬くんは夏樹のベッドに腰掛けて、隣に座るよう促された。頷いて隣に腰掛ける。なんとなくこぶしひとつ分の距離を空けた。
気まずい沈黙。黒瀬くんから言われる前に自分から謝ろう。わたしは先に沈黙を破った。
「ごめんね。夏樹からチケット貰ったってちゃんと言わなくて」
黒瀬くんは驚いたように銀縁眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
「え? 全然気にしてないけど? まぁ聞いた時は夏樹に奢ってもらったのかって複雑だったけど、逆によかったよ。井上と高貴なデートが出来たわけだし」
優しい目を向けられた。今のわたしにはそれがとても辛い。口の中が苦くなった気がして無理矢理飲み込んだ。
黒瀬くんは窓の外に視線を移した。
「まだ夏樹には言ってないんだけど、来週退院できそう」
「あ、精密検査で異常なかったの?」
「うん」
「よかった……」
心の底から安堵した。病気が治った訳じゃないことは分かっているが、異常がなかったとなるとやはりホッとする。社会復帰出来ると分かって安心した。
「……それで、さ」
自分の両手を握っていた黒瀬くんの手に、力が入ったのが見えた。
「……うん」
窓の外に見える遠くの木々が揺れている。俯くとおろした髪が視界を遮った。耳に髪をかけたと同時に、黒瀬くんの声が鼓膜を震わせた。
「夏樹のそばに、いてやってほしい」
聞こえるはずがない、葉が擦れる音がした。サワサワサワ。黒瀬くんが立ち上がった音だと気付いたのは、息を吸い込んだ時だった。黒瀬くんの言葉の意味を理解し損ねた。
「どういう、意味?」
「俺のそばじゃなくて、夏樹のそばにいてほしい」
間髪入れずに返ってきた。
「……なに、それ。分かんないよ……」
そこまで言われて分からないわけがなかった。それでも分からないふりをした。どうしてそんなことを言うのかが分からなかったからだ。
「わたし、黒瀬くんのこと、好きだよ?」
黒瀬くんは座っているわたしを見下ろす。銀縁眼鏡の奥の瞳は、儚げに揺れていた。
「知ってる。あと、井上が夏樹を忘れられないのも、知ってる」
音が消えて、血の気が引くという感覚を初めて知った。スッと身体が冷えて寒くないのに手が震える。黒瀬くんは白衣の内ポケットから一枚の写真を取り出した。
「わざと実家の机の上に置いたんだ」
ドクン、と心臓が大きく脈を打った。教室の黒板の前に並んだ四人の写真。右端の黒瀬くんは仏頂面で眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げている。その隣の秋菜は小さくピースをしてはにかんでいて、その隣の夏樹は満面の笑みで両手ピースしている。夏樹の隣のわたしは──
「井上の一番は、夏樹だよな」
──左端のわたしはピースしながら横目で隣の人を見つめていた。
目を瞑ったかもしれないと言ったのは嘘だった。箱には蓋などなく、開け放たれたまま心の奥に仕舞っていただけだった。黒瀬くんは全部知っていたのだ。
「どう、して」
「伊達に二十年も井上に片想いしてないからな。見てたら分かる」
弱々しく笑う黒瀬くんの顔は、昨日の夏樹と被って見えた。わたしは大切な人を傷付ける天才なのかもしれない。
「夏樹がずっと井上しか見てないのも、知ってた」
黒瀬くんはそう言うと、白衣のポケットに手を入れて、天井を仰いだ。
「好きな人を幸せにしてやれないからって諦める気持ちは、正直俺には全く理解できない。俺は井上を幸せにする自信があるし、ほかの男のところになんて行ってほしくない」
そこで一旦切ると、黒瀬くんはわたしと目を合わせて続けた。
「でも、井上はどっちかっていうと、人に幸せにされるよりも人を幸せにするタイプだと思う」
虚をつかれた。本当に黒瀬くんはわたしのことをよく分かってくれる人だ。そんな人に愛されるなんて、なんて贅沢だったんだろう。
「わたしは……」
気を緩めると泣きそうになるので、グッと堪える。ここでわたしが泣いたらダメだ。言葉の続きを紡ごうとすると、黒瀬くんはフッと笑った。
「もっと単純に考えてよ。一番そばにいたいのは、誰?」
一番そばにいたい。そう言われて頭に浮かんだのは、犬みたいな幼馴染の顔だった。
わたしの名前を呼ぶ声、屈託なく笑う顔、わたしに見せた涙。
『わたしがそばにおっちゃるけぇ!』
自分でそう言っときながら、自分から夏樹の元を離れた。もう、夏樹のそばにいる資格なんてないと思っていた。そんなわたしが夏樹を幸せにできるわけがない。でも。
「夏樹の、そばにいたい」
自然と口から出ていた。もし、許されるなら、わたしが夏樹のそばにいて、支えたい。もう看護師に戻ろうなんて思わないけど、必要としてくれるなら、そばにいさせて欲しい。それがわたしの本心だった。
黒瀬くんは満足そうに頷いて「これで最後」と言ってわたしの手を掴んで引っ張った。黒瀬くんにすっぽり抱きとめられる。ふわっと石けんの匂いがした。
「好きになってくれてありがとう。すげぇ幸せだった。今度は夏樹を幸せにしてやって」
黒瀬くんは早口でそう言うと、すぐにわたしを離して背を向けた。
「じゃあ芹澤の演奏、聴きに行こう」
ヒラヒラと手を振って、黒瀬くんは病室から出て行ってしまった。
黒瀬くんはいつもわたしを見てくれていて、本当に感謝してもしきれない大切な人だ。これから先、黒瀬くんみたいな素敵な人は現れないと思う。でも、黒瀬くんにはわたしよりもずっと黒瀬くん事を想ってくれる人が現れるだろう。そうじゃないと、ダメだ。黒瀬くんは、幸せにならないとダメだ。
「ありがとう、黒瀬くん」
思わず呟くと、頬に温かいものが伝った。




