後悔と嘘⑪
◇
「あ、きらきら星だ」
秋菜が東京に来てから二週間が経った日曜日。一ヶ月経ってもいまだ目を覚まさない夏樹の病室で、わたしは夏樹の身体を清拭し、秋菜はキーボードで音楽を奏でていた。
「この曲、夏樹好きだったよね」
「うん。この変奏曲が好きじゃった」
冒頭はよく耳にするあのテーマから始まって、メロディーはそのままにリズムが変わったり装飾音がついたりして明るい曲調、暗い曲調と変幻自在に姿を変えながら進行していく曲だ。
「この曲ってね、当時フランスで流行しとった恋の歌『Ah! vous dirai-je, maman(ああ、お母さん、あなたに申しましょう)』っていう曲が原曲で、モーツァルトがピアノ変奏曲にして発表した曲なんよ。じゃけぇ正式なタイトルは『「ああ、おかあさん、あなたに申しましょう」の主題による12の変奏曲』なんよ。その曲名じゃ売れんよね」
速弾きしながらおっとりとした口調で解説をする秋菜。頭の中は一体どうなっているのだろう。
「何をお母さんに申すの?」
「恋愛相談」
お母さんに恋愛相談。そんな曲が流行ってたフランスって、平和だったんだなぁ。
「夏樹くんもお母さんに恋愛相談とかしとったんかな?」
「秋菜のことを? 夏樹ならしそう」
そう言えば夏樹は反抗期が無かった気がする。割と『母さん母さん』と言っていたマザコンなので何でも相談してそうだ。その様子を想像して思わず笑うと、秋菜はキーボードを奏でるのを止めた。どうしたのだろう。譜面忘れたのかな。
秋菜は夏樹を見た。
「……夏樹くんは、本当はうちのこと好きじゃなかったよ」
「え?」
思いもよらない言葉に、わたしは秋菜をマジマジと見た。夏樹が秋菜を好きじゃなかった──? そんなはずはない。小さい時から夏樹は秋菜が好きだと言っていたし、周りも知っている話だった。それなのに、なんだって? 秋菜が口を開く。
「本当に好きだったんは──」
コンコンコン。
ドアがノックされた。「ごめん、遅くなった」と入ってきたのは、私服姿の黒瀬くんだった。日曜日なのでお休みなのだ。
時刻は正午を十五分過ぎたところ。今日は春夏秋冬カルテットで昼食を摂ろうと、夏樹の病室に集まる予定だった。
「大丈夫だよ。じゃあ食べようか」
秋菜が言いかけたことは気になるが、お腹が空いた。わたしは秋菜と一緒にお弁当を作ってきたので、それをベッドのテーブルに広げた。
「なんか、ピクニックみたいじゃね」
「うわ、美味そう。これ、全部井上が?」
「秋菜と一緒に作ったの」
「ほとんど春香ちゃんが作ったけど」
夏樹を囲んでワイワイしながら箸を進めていく。
「おい夏樹。早く起きないと俺が全部食べるぞ」
「黒瀬くん少食じゃないの」
「そういえば夏樹くんはよく食べとったね。早弁もよくしょーたよね」
「『食べ盛りじゃけぇ』って言ってたよね」
あはは、と笑う三人の中に、夏樹の声は入っていない。
「そういえば昨日、春斗が見舞いに来てた」
黒瀬くんがだし巻き玉子を頬張りながらわたしを見た。
「知ってる。しかもあいつ、『hitotoseのチーズケーキ買って』って会社まで来て並ばされて、わたしの昼休憩丸潰れ」
いつか交した約束を、ここぞとばかりに引き合いに出して外に連れ出された。無下にできなかったのは、夏樹の見舞い後に会社に来た春斗の『姉ちゃん』と呼ぶ声が震えていたからだ。『夏兄、大丈夫だよな』と思いっきり不安そうな顔で聞いてくるので『大丈夫。みんないるから』と背中をぶっ叩いておいた。
「『起きたらゲームしよう』ってゲームソフト置いていってた」
そう言って黒瀬くんが床頭台を指したので見ると、ゲームのソフトが一本だけテレビの前に置かれていた。一本って。何本か置いていけよ。
「春香ちゃんと一緒で優しいね」
「口だけ優男だけどね」
「井上は昔から春斗のことそう言うよな」
根っこが優しいことは知っている。だけど、癪なので言わないだけだ。黒瀬くんも秋菜もそれを分かっているのか、特にツッコんではこなかった。
ワイワイ楽しくしているのに、夏樹は目を閉じて黙りこくったままだった。
「ご馳走様でした。美味しかった〜」
「お粗末様でした」
「井上も芹澤もありがと。美味しかった」
満腹になったわたしたちは腹太鼓を叩いてご馳走様をした。
「ちょっとお手洗い行ってくるね」
秋菜がそう断って病室から出る。入れ替わるようにして病棟看護師さんが「黒瀬先生」と遠慮がちに入室してきた。
「すみませんお休みのところ……ちょっと患者さんのことで相談があるんですけど……」
チラチラとわたしを見ながら黒瀬くんに確認する看護師さん。黒瀬くんもわたしを見たので「行ってあげて」と手を振った。
「ごめん。ちょっと行ってくる」
去り際に看護師さんに頭を下げられた。ドアが閉まり、急に静寂に襲われる。聞こえるのは夏樹の心臓が規則正しく動いていることを教えてくれる機械音だけ。少し前まで、締め切った窓の外からでもはっきりと聞こえていた蝉の声も、今はあまり聞こえない。
目を閉じたままベッドで眠る夏樹を見る。
無防備なその寝顔を見ると、心の奥底からよく分からない感情が湧いてきそうになった。懐かしいような、そうじゃないような、そんな感情。
逸らさなければ、と分かっていても逸らしてはいけないような気がしてジッと見つめる。
無意識に夏樹の手元に自分の手が伸びた。
布団の下に隠された彼の手をそっと出し、自分の頬に当てる。
──お願い、起きて。
仕舞っていた感情が揺らめいているのを自分でも感じる。しっかりと掛けたはずの鍵は壊れ、箱の隙間から溢れようとしている。
でも、それではダメだ。布団の下に手を戻して、目を閉じた。
『一緒に東京に行こう』と連れ出してくれた黒瀬くん。『我慢するな』と泣き場所を作ってくれた黒瀬くん。
箱の蓋を両手で目いっぱい押し込んだ。




