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春夏秋冬カルテット  作者: 音吹
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後悔と嘘⑨

「春香ちゃん!」


 翌日の仕事終わり。昨日と同じ時間に夏樹の病室に入ると、フランスにいるはずの秋菜がベッドサイドの丸椅子に座っていた。


「秋菜? もう来たの?」


 夏樹が一般病棟に移ったから会えるよ、と昨日連絡したばかりだった。まるで隣町からやって来たような早さにただ驚く。


「会えるって思ったらいても立ってもおれんくなって……」


 言いながら夏樹を見る。彼はまだ目を覚まさない。


「会いたくないって言ったくせに、都合ええかな」


 自嘲する秋菜に「わたしも都合いいよ」と目を伏せた。


「もう看護師じゃないのに夏樹を診たいって思ってる」


 あの日顔色が悪かった夏樹を、無理矢理にでも病院に行かせていたら、こんな事にはならなかったかもしれない。だからわたしが看病しなければ。ただの罪滅ぼしのような理由で夏樹を看病しようだなんて、都合が良すぎる。


「あの黒い大きいの、なに?」


 床頭台に一メートルほどの長さの長方形のものが置かれているのに気が付いた。ナイロン製の黒いカバーで覆われているそれを、わたしは知っている気がする。なんだっけ。


「キーボード持ってきたんよ」


 思い出す前に秋菜が答えた。そうだ、あれは電子ピアノ──キーボードだ。


「夏樹くんに聴かせたら目、覚ますかなって思って」


 夏樹は秋菜のピアノが本当に好きだった。うん、いい考えだ。


「さすがに夜は他の患者さんに迷惑じゃろうけぇ、明日昼に来て弾こうと思っとる」


「うん。夏樹も喜ぶよ。よかったね、夏樹。プロの演奏がタダで聴けて」


「ふふふ。あ、春香ちゃん。お願いがあるんじゃけど……」





 面会時間ギリギリまでいたが、夏樹が目を覚ますことはなかった。


「お邪魔します」


「ごめん、ちょっと散らかってるけど……」


 秋菜のお願いは今日一日家に泊めてくれという、至極簡単なお願いだった。二つ返事で頷いてワンルームアパートに連れてきた。


「でもホンマにええん? 当分の間お世話になっても」


「いいに決まってるじゃん。ホテル代だってかかるだろうし、わたしも秋菜が一緒にいてくれたら心強いから」


 秋菜のお願いは一日だけ泊めてくれというものだったが、いつまで日本にいるのか訊くと夏樹が目覚めるまでと言うので、それならそれまでずっとうちにいなよと提案したのだ。


「あ、春香ちゃんの匂いがする」


 玄関を上がりベッドのある部屋に入ると、秋菜は胸いっぱいに空気を吸い込んで言った。


「それ、借りて洗ったハンカチを黒瀬くんに返した時も同じこと言われたんだけど、どういう意味?」


「んー。なんじゃろ。優しい匂い?」


「なにそれ。分かんない」


 多分柔軟剤の匂いなんだろう。毎日嗅いでいるわたしにはいい匂いなのかどうか分からない。


「あ、荷物こっちに置いて」


「ありがとう」


 秋菜は電子キーボードとキャリーバッグを空いているスペースに置くと、床に体育座りで座った。


「紅茶でいい?」


「うん、ありがとう」


 アップルティーがあったのでマグカップに淹れてローテーブルに持って行くと、秋菜は膝に顔をうずめいていた。


「秋菜?」


「……うちがピアノ辞めるって夏樹くんに言ったのが間違いじゃったんかな」


 耳にかけたサラサラの黒髪がパラパラと落ちる。ここにもまた、後悔している人がいた。


「なんで? 結婚して家庭に入るんだったら、仕方ないことでしょ?」


 しかし秋菜は「そうじゃない」と膝に目元を押し付けるように首を横に振った。


「正直、迷っとんよ」


 思わぬ言葉にわたしは驚いた。この間聞いたときははっきりと「ピアノを辞める」と言っていたのに、迷っているだなんて。


「辞めたいわけじゃなくて、結婚するけぇって言い訳にしとんよな。全部、自分の保身のため」


 秋菜は顔を上げた。


「夏樹くんに『ピアノ辞める』って言った時すごく悲しそうな顔しとって、もしかして間違えとんじゃないかって思った。


 高校卒業前にね、夏樹くんに相談したことがあって、本当はプロになるの不安じゃったし、この道で間違ってないんかなって悩んだことがあって。その時に背中を押してくれたのが夏樹くんで、ずっと応援してくれとったのに結婚するけぇって辞めるっていうのは、もしかして違うんかなって思って……」


「秋菜……」


 そうだったのか。正直わたしはホッとした。あのコンサートを聴いてピアノを辞めると聞かされた時、もったいないと思ったし辞めてほしくないとも思った。


「旦那さんになる人は、ピアノ続けてほしいって言ってるんだよね?」


「うん」


「じゃあ、わたしのためにも続けてよ。コンサートに行って秋菜の演奏聴いた時、わたし感動して泣いちゃった。ピアノ辞めるって言われたときは寂しかったし、もうあの演奏が聴けなくなるのかと思ったら悲しくなった。辞めたいわけじゃないなら、辞めないでよ」


 わたしは看護師を辞めたくて辞めた。辞めたくないのに辞めると言った秋菜を、わたしが止めないといけない気がした。夏樹が目を覚ました時に、笑顔が見たいから。


「春香ちゃん……ありがとう。そう言ってもらえて嬉しい」


 秋菜は目元を指で拭って笑った。


「うち、ピアノ続ける」


 迷いのない、真っ直ぐな瞳だった。わたしは頷いた。


「じゃあ、目を覚ましたらちゃんと言おう」


「……うん」


 間違いは誰にでもあって、後悔する選択肢を選んでしまうこともある。間違いをちゃんと認めて謝ることが出来れば、それいいと思う。でも、それには相手がいないことには始まらないし終われない。絶対に夏樹を目覚めさせる。そしてみんなで謝るんだ。


 まつげに涙の粒を浮かべた秋菜を見て、わたしはそう誓った。


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