後悔と嘘②
「あれ、今日天気予報雨でしたっけ?」
午後六時。定時になったので帰り支度をしていると、窓の外を見ていた小西くんが言った。
「うん、雨だったよ。傘持ってきてないの?」
「知らんかったぁ。まぁ知ってても傘なんて持ってきませんけど」
理由を訊いたら「荷物になるもん」と一蹴された。口調は可愛いが理由が可愛くない。ただの面倒臭がりじゃないの。
「ま、小雨だから問題ないっす。じゃ、俺先出ますね。お疲れっしたー」
「お疲れ様ー」
小西くんはわたしに断られた後、大学の先輩と飲みに行く約束を取り付けたらしい。相手のフットワークの軽さに舌を巻いた。
「じゃあ井上ちゃん。わたしたちも出ようか」
理佳子先輩に声を掛けられて、一緒に会社を出る。小西くんが言っていたように小雨が降っていた。
黒瀬くんとは駅前で待ち合わせだったので、途中で理佳子先輩と別れた。別れ際に「楽しんでね」とウィンクされたので、卒倒するかと思った。
傘を差して一人で歩く。守られているのは頭だけで、空から遮断された空間は密室のようで嫌いじゃない。その密室空間でひとり考える。
どこから間違えてしまって、どうするのが正解だったのだろう。もしもわたしが東京に来てなかったら。もしもわたしが看護師を続けていたら──そんなもしも話なんか考えても仕方がないのに。
「井上?」
遮断された空間が急に開けた。傘の縁を持ち上げ顔を覗き込んできたのは、黒色の傘を差した銀縁眼鏡の黒瀬くんだった。
「あ、黒瀬くん。お疲れ様」
「うん。井上もお疲れ」
微笑む黒瀬くんの目は優しいけどどこか緊張しているような気がする。どうしたんだろう。
「どこの居酒屋連れてってくれんの?」
「魚蔵家っていう、お刺身が美味しい個室の居酒屋さんだよ」
行こっか、と横並びで歩き出した。お互い傘を差しているので自然と距離ができる。触れられそうで触れられないもどかしい距離。それに気付かないふりをして歩いた。
魚蔵家は前に小西くんが奢ってくれた居酒屋で、すっかり気に入ってしまった。個室だし、何よりお刺身が美味しい。小西くんも大学の先輩と飲みに行くと言っていたが、八十郎に行くと言っていたので会うことはないだろう。
看板が華やかな魚蔵家の暖簾をくぐって「予約していた井上ですけど」と言うと、すぐに部屋へ通された。満席で入れなかったら嫌だったので予約していたのだ。黒瀬くんは「へぇ、こういうとこ来るんだ」と入口から何かを確認するようにキョロキョロして、案内された個室に靴を脱いで上がった。
「黒瀬くんはバーが多いの?」
「まぁ行きつけだからな。基本一人だし」
向かい合わせに座り、用意されたおしぼりで手を拭いたところで、黒瀬くんが「なぁ」と言いにくそうに口を開いた。
「はい?」
「今日さ、井上ん家に、泊ってもいい?」
「……!」
突然の申し出に固まってしまった。わたしの家に黒瀬くんが泊まりに来る? それはつまりどういうことか。ボッと顔から火が出そうになって慌てて頬に手を添えた。
「え、いや、別にいいけど、うち? 黒瀬くん家じゃなくて?」
あ、と思った時にはもう口走っていて、くつろげるのは自分家だろうという意味で言ってくれたのだと後になって気付いた。
黒瀬くんは慌てふためくわたしに向かって、あの愛おしそうな表情を向けた。
「朝まで一緒にいたいだけなんだ」
空気が甘い。今日飲んだイチゴミルクの味が舌に蘇り、黒瀬くんを直視できなくなったわたしは俯いて「はい」と小さく返事をした。
「じゃあ、悪酔いしたくないから、一杯目はお互い水にしよう」
そう言って黒瀬くんは呼び鈴を押して、来た店員さんにお冷とお刺身等料理をいくつか注文した。
悪酔いって、なに。酔った勢いでしちゃわないようにって意味? 分からない。全てにおいて未知すぎて、首を傾げることしか出来ない。そんなわたしに対して黒瀬くんは余裕の表情でメニュー表を眺めている。
わたしと黒瀬くんの間にあるテーブルが、大人と子どもの境界線のように見えた。
「お、お医者さんって忙しい?」
とりあえず何か話題を、と思って口から出た質問は元看護師とは思えないほどアホみたいな質問だった。でも黒瀬くんは小さく笑って答えてくれた。
「まぁ、昼食を食べ損ねるくらいには忙しいかもな」
うん、知ってる。飛鷹総合病院で働いていた時、お医者さんはみんな忙しそうで、ご飯中にもPHSが鳴って対応していた。もっぱら電話を掛けていたのはわたしたち看護師だったんだけど。
「経理部は? 次忙しくなるのはいつ?」
「中間決済があるから、九月後半くらいからかな。あ、そうだ。今日ね、二ヶ月前の領収書を持ってきた人がいてね……」
とりあえず話をしようと思って今日の出来事や昨日の出来事など、割とどうでもいいことをベラベラと話しまくった。黒瀬くんは変な顔をしたりせず、穏やかな表情でわたしの話に相槌を打ったりしてくれた。合間に刺身もつまむ。うん、美味しい。
「そろそろ一杯目頼もうか」
お腹にいくらか食べ物を入れたところで、黒瀬くんが呼び鈴を押そうと手を伸ばした。その頃にはわたしの緊張も解けていて、ホッと息を吐いた。その時。




