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春夏秋冬カルテット  作者: 音吹
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後悔と嘘①

「おい誰だ先々月の領収書持ってきた奴」


 お盆休みが明け、東京へ帰ってきて一週間が経った。明日は休みの土曜日で、今日はいわゆる花金だ。閑散期の経理部はのんびりとしていたが、わたしの前に座っている月見班の一人、三十五歳の杉田さんが鬼の形相で立ち上がった。


「技術部め……絞める!」


 怒気をはらんだ杉田さんはドスドスと足音を鳴らしながら部屋から出て行った。


 うちの経理部への領収書等提出期限は翌月十日までで、期限内であれば清算できるのだが、先々月というと二ヶ月前……どう考えても期限を過ぎている。規定を破れば罰則があり、始末書を書かされるのが我が社の方針だ。いくらの領収書だったのか知らないが技術部の人、ご愁傷様です。心の中で手を合わせておいた。


「井上さん」


 左隣の小西くんがわたしの遠慮がちに腕をつついてきた。


「ん? どした?」


「今日の夜、空いてます?」


「なんで?」


「明日休みなんで、どうっすか」


 小西くんはクイっと手を口元で傾ける仕草をした。ああ、飲みに行こうということか。わたしは両手を合わせて「ごめん」と言った。


「今日は先約があるの」


 そう言うと小西くんは一瞬キョトンとして、すぐ何かに気付いた顔をした。


「あ、デートか。そうっすよね、彼氏いますもんね。俺こそすみません。違う人誘って行きます」


 バツが悪そうに謝ってくるので、こっちが断ったのにいたたまれなくなった。今日は黒瀬くんと飲みに行く約束をしているのは本当で、なんなら三人で飲んでもいいくらいなのだけど……いや、さすがにそれはダメか。何考えてんだわたし。暑さで頭がやられているようだ。


 訳の分からない思考を飛ばすように頭を軽く振って、わたしは「ちょっと飲み物買ってきます」と財布を持って自席から離れた。


 あの悪夢のような同窓会の後、わたしと黒瀬くんは何もなかったかのように東京に帰ってきた。どうしてあんなことを言ったのか真意を確かめようともしたが、その話題を口にできないほど黒瀬くんの目は笑っていなかった。あれ以来夏樹にも会っていない。彼がいつ、どうやって東京に帰ってきたのかも知らなかった。


 秋菜はわたしが東京に帰った次の日に、フランスへ帰ると本人から電話で聞いた。また帰国する時は連絡するとだけ言われ、わたしもそれ以上のことは聞かなかった。


 十年会わなくてもなんとか形を保っていた春夏秋冬カルテットは、完全に崩壊したのだった。


「イチゴミルクは二階か……」


 廊下に置いてある自販機の前でわたしは肩を落とした。この会社は階数によって自販機の中身が違っており、わたしが今飲みたいイチゴミルクは四階の自販機には入っていなかった。ないと思うと余計に飲みたくなるのが人間の(さが)で、たった二階下りれば手に入るのなら苦じゃない。近くの鉄製のドアを開けて階段で二階分下りた。


「お、あった」


 お目当てのイチゴミルクはやはり二階の自販機にあり、財布から小銭を出して缶のイチゴミルクのボタンを押した。ここの自販機の飲み物は、道に設置してある自販機よりも安く購入できるので得した気分だ。ミッションコンプリート。


 自席まで待てずプルタブを開けて一口飲んだ。そうそうこの甘さ。恍惚として飲んでいると、人通りが多いことに気が付いた。あれ、二階ってどこの部署だっけ。


 帰りはエレベーターでラクしようとエレベーターホールで待っていると、下から上がってきたエレベーターのドアが開いた。


「あ」


「あ」


 右目に三つの泣きボクロを付けた幼馴染が降りてきた。ここでようやく二階が営業部だったことに気付く。彼は気まずそうにわたしの前に来ると「お疲れ」と見下ろしてきた。


「あ、うん、お疲れ」


 エレベーターの扉は閉まり、誰も乗せないまま上に上がってしまった。


 何か言わなければと思えば思うほど口から言葉が出なくなる。夏樹も夏樹で何か言いたそうにしてわたしの前から動かないので、第三者がいれば「じれったいな」と言われる状況だと思う。分かってはいるのだが、脳みそが口に言うべき言葉を命令することを放棄したので、わたしは夏樹の顔色を窺った。


「あれ、顔色悪くない?」


 開かなかった口が簡単に開いたのは、一瞬目を伏せた夏樹の顔が少し白かったからだ。心なしか唇も紫がかり、覇気がない。思わず腕を掴んで顔を覗きこもうとしたら、ものすごい勢いで後ずさりされた。


「大丈夫。昨日夜中に、借りたDVD観て寝不足なだけ」


「それにしても……」


「もう外回り終わって、あとは事務作業だけじゃけぇ」


 スッとわたしの脇を通り過ぎて営業部の部屋へ行ってしまった。突然拒絶されたことに戸惑う。


『だって病気が治ったって言っても、誰も喜ばんかったもんな』


 実家前で放たれた言葉が頭の中で再生される。無意識に下唇を噛んでいた。


 口内に残ったイチゴミルクの甘さに、鉄の味が加わった。



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