不協和音⑦
「春香……」
そんな消え入りそうな声でわたしを呼ばないで。目を伏せると黒瀬くんが小さくため息をついた。
「なぁ夏樹」
「……なに?」
黒瀬くんは銀縁眼鏡を乱暴に押し上げた。
「病気が完治したって言ったよな」
「え?」
「そうやって俺たちに言った意味、分かってた?」
黒瀬くんが言ってはいけないことを言おうとしている。わたしは「黒瀬くん」と小さく首を横に振って止めようとした。しかし、黒瀬くんはわたしを見ることなく正面に立つ夏樹だけを見て言った。
「『病気が治ったからお前たちは必要ない』って意味だったんじゃないのか!」
痛い。胸も、握られた手も、目に刺さる夕焼けも、黒瀬くんの声も、夏樹の目も、秋菜の涙も、全部が痛い。
夏樹に突き放されたのはわたしだけだと思っていた。黒瀬くんはさっき『俺たち』と言った。もしかして黒瀬くんも秋菜も、わたしと同じように感じていたのだろうか。
「おーい、何しとる? 早う家に入りんさい」
お父さんが二階のベランダから声を掛けてきた。手にはタバコを持っている。場違いな介入だったが、今は逆にそれがありがたかった。
「みんなも、帰ろ? 秋菜、煮物ありがとうね」
あれだけ強く握られていた手はあっけなく離され、秋菜から煮物のタッパーを受け取る。
「うん。春香パパとママによろしくね」
秋菜は夏樹に何か言おうとしたが、下唇を噛んで「ごめん」とだけ呟いて駆け出した。
「俺も帰るわ。じゃあ、明日迎えに来るから」
「うん、ありがとう」
黒瀬くんは夏樹を見ずに踵を返した。
「…………」
夏樹と二人になる。目の色を失った夏樹は力なく息を吐いた。
「春香が看護師を辞めたのも、俺のせい?」
そう訊かれ、颯太くんの頭を撫でた時の感触を思い出した。細い髪の毛は滑らかで、少し汗ばんでいた頭皮。『怖い』と泣く、たった八歳を救ってやれなかった無念。
わたしは首を横に振った。
「違う。自分の意思で、辞めた」
誰のせいでもなかった。強いて言うなら自分の弱さのせいだ。それを他人のせいだと押し付けることは許されない。
夏樹はフッと鼻から息を出した。それが鼻で笑ったのか、ただ息を出しただけなのか分からなかった。
「やっぱり俺が病気じゃったけぇ三人は一緒におってくれたんよな」
「え?」
言った意味が分からなかった。近くの電線にカラスが止まってカーカーと鳴き始める。
夏樹は自分の家の玄関を開けながら呟いた。
「だって病気が治ったって言っても、誰も喜ばんかったもんな」
時間が止まった気がした。夏樹が家の中へ吸い込まれるようにして入っていき、わたしの視界から消えた。同時にカラスも飛び立つ。
わたしはあの時、夏樹と一緒に喜んだだろうか。黒瀬くんと秋菜は? よかったねって、言ってた?
苦しくなって息を吸い込んだ。無意識に息を止めていたようだ。急に酸素を取り込んだせいで目眩がした。全身が脈を打ち始める。
『だって病気が治ったって言っても、誰も喜ばんかったもんな』
その言葉だけが鼓動とともに耳に残って離れなかった。




