不協和音⑥
どこかに遊びに行くのも車が必要なこの田舎町で特にすることもなく、ただ話をするだけのデートは意外にも楽しかった。途中で黒瀬くんの両親に呼ばれ、リビングで一緒にアイスを頂いたりして、こんなに平和な日を過ごしたのはいつぶりだろうと感慨深くなった。
午後六時半。日が沈み始め、遠くの空がオレンジ色に染まり始めた頃、黒瀬くんの家からわたしの家まで歩いて三分ほどの距離を送ると言ってくれたので、手を繋いでゆっくり歩いていた。
「ここって本当に何もないよな」
黒瀬くんが首を回して周りを見る。同じように首を回すと、目に入るのは山と川と田んぼと古民家風の家がポツポツと建っている光景だった。見渡すところにはコンビニもスーパーもない。絵に描いたような田舎町で、わたしたちは確かに過ごしていた。
川へ洗濯、山へ芝刈り。そんな昔話の題名は何だったっけ。
「自然もたまにならいいけど、東京に慣れたらもうここには戻れないな」
「確かに」
そういえば昔、春夏秋冬カルテットでセミの抜け殻を集めに山に入ったことがあったな。小さくなるセミの声を聴きながらふとそんなことを思い出した。
井上家が見えてきた。「もうここでいいよ」と黒瀬くんを見上げると、黒瀬くんはわたしの家の方をジッと見て眉をひそめた。
「黒瀬くん? わっ」
視線を辿ろうとしたとき、繋いでいた手を引っ張られ、黒瀬くんの前に立たされた。驚いて見上げると腰に手を回され引き寄せられる。顔が近付いたかと思ったら、唇に柔らかい感触があり、すぐ離れた。目を瞑る暇などなかった。
突然の出来事に思考が追い付かない。見つめることしか出来ないわたしに、黒瀬くんは「ごめん、足りなかった」とだけ言った。
遅れて心臓が早鐘を打つ。気温の暑さと体温の熱さで沸騰するかと思った。
「黒瀬くん! ここ、外だし実家の前だから!」
「ごめんって」
平謝りしてわたしと指を絡ませるように手を繋いだ黒瀬くんの視線はやはりわたしの家の方角にあり、不思議に思ってわたしもそちらを向いた。
そこには茶色に染められた猫っ毛を揺らし、右目の下に三つのホクロがある背の高い人が立ってこちらを見ていた。
「夏樹……」
咄嗟に繋がれた手を引こうとしたが、黒瀬くんにグッと力を入れられ、離せなかった。
しまった、春斗にわたしが家に帰るまで夏樹をこの家から出すなと言っておくべきだった。なぜか分からないけど、そんなことを思った。
「……冬弥、久しぶり」
こちらに歩いてきて最初に口を開いたのは夏樹だった。対峙する二人の背丈はそんなに変わらない。
「うん。元気そうで何よりだよ」
黒瀬くんは優しい言葉とは裏腹に、鋭い視線を夏樹に投げている。夏樹は視線を下に落とすと、一瞬だけ悲しそうな顔をした。
「そうか、二人、付き合ってんのか」
ポツリと呟いた夏樹の声は、次第に元気が無くなっていくセミの声とともに耳に届いた。まるで知っていたかのような口調に、わたしは無意識にごくりと喉を鳴らした。黒瀬くんと会っていないことになっているはずなのに、どうして。
居心地の悪い沈黙が三人の間を駆けた。
「……夏樹、同窓会しようか」
黒瀬くんが口を開く。え、と見上げると遠くの方から「春香ちゃーん!」とわたしを呼ぶ声がした。
「昨日いくらかお野菜もらったから、お母さんに煮物持って行きなさいって、言われて……」
長い黒髪を左右に揺らしながら走ってきた、白いワンピース姿の秋菜は夏樹を見て目を見開いた。
「夏樹くん……」
「芹澤……」
思わず頭を抱えてしゃがみそうになった。目眩がする。
もう集まらないと思っていた四人が、望んでいない形で集合してしまった。頭の中で不協和音が鳴り響く。
だんだんとオレンジ色に染まる範囲が広くなる空を、綺麗だなんて思う余裕はなかった。ただ、この場をどう凌げばいいのかということしか考えられない。
「井上から聞いたよ。同窓会やりたいんだって?」
わたしと手を繋いだまま、黒瀬くんは真っ直ぐ夏樹を見ていた。
「そう、じゃな……春香、声掛けてくれたんじゃ」
「いや、そういうわけじゃ……」
幹事はやらないとはっきり言ったのに、裏でこっそり同窓会の件を黒瀬くんに訊いていたと知って、夏樹は『声を掛けてくれた』と言ったのだろう。違うのに。そうじゃないのに。ついでだったのだ。黒瀬くんに会う口実だったのだ。幹事を断っときながら、それを利用した。夏樹の為ではなかった。
「芹澤は? 四人で同窓会するの、どう思う?」
突然黒瀬くんが秋菜に問う。秋菜は煮物が入ったタッパーを持ったまま、地面に視線を落とした。
「あー、どうじゃろ。うち、夏樹くんに会わせる顔、なかったけぇ……」
曇る秋菜を見て夏樹が声を上げる。
「え、それってどういう意味?」
「あのね、うち、結婚して、ピアノ辞めるんじゃ」
「え……」
とうとうセミは鳴くのを止めた。空気の音だけがやけにうるさく聞こえる。秋菜のカミングアウトに、夏樹は明らかに動揺していた。
「ピアノを……辞める?」
「夏樹」
黒瀬くんが夏樹を見据えた。夏樹は双眸を揺らしながら黒瀬くんを見る。
「もうあの頃とは違うんだよ」
「冬弥……」
夏樹の視線がわたしに移った。憔悴した様子を直視できなくて思わず目を逸らす。
「井上から同窓会のこと聞いた時、今更だなって思った」
黒瀬くんは確かに『今更だ』と言った。そしてその後は。
「俺は夏樹には会わないって言ったんだ」
自分の眉が中央に寄った。
「井上だって、夏樹には会いたくなかっただろ?」
心の内を読まれたみたいでドキッとした。確かに看護師として働いていないわたしは、そのことを知られたくなくて夏樹に会いたくなかった。でもここで頷いたら夏樹を傷付けてしまう。そんな小さな偽善がちらついて、わたしは無言を決め込んだ。その無言は肯定の意味と捉えられるかもしれないのに。




