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春夏秋冬カルテット  作者: 音吹
31/68

高貴なデート⑤

 夜七時に開演したコンサートが終わったのは二時間後の夜九時だった。一斉に会場を後にする客が引くのを待ってからわたしたちも出ることにした。


「一万円払う価値はあったな」


「うん。ほんとにすごかった。今までクラシックって興味なかったけど、すごく好きになった」


「俺も」


 しばらく談笑して、そろそろ人が減ったので出ようかと立ち上がった時。


「春香ちゃん!」


 ステージからわたしを呼ぶ声がした。腰を浮かせたまま顔を上げる。


「秋菜……」


 さっきまで目の前でピアノを演奏していた、水色のドレスを着た幼馴染だった。


「来てくれとったんじゃ! 冬弥くんも」


 ステージの端にある階段を駆け下りて、秋菜はわたしと黒瀬くんの目の前にやってきた。


「演奏しながら二人見かけて、絶対捕まえようと思っとったんじゃ! よかった、まだ帰ってなくて」


 額にうっすら汗をかいた秋菜は、白い歯を見せて笑った。ピアノを弾いていた時とはまるで別人のようなあどけなさに、わたしは懐かしさを覚えてまた泣きそうになった。会って話す気はなかったが、こうして駆け寄ってきてくれたことは素直に嬉しい。


「秋菜……久しぶり」


「うん。十年ぶり? 春香ちゃん相変わらず可愛い! 冬弥くんはますます格好よくなっとる」


「そう? 芹澤も大人っぽくなったな」


「ホンマ? お世辞でも嬉しい」


 ニコニコ笑う秋菜のおっとりした高めの口調は昔と変わらない。ふと視線を胸にやると、秋菜は「あ、気付いた?」と目を細めた。


「おっぱい大きく見えるじゃろ。これ、パッドめっちゃ入れとる」


 ニシシ、と歯を見せて秋菜は笑った。


「ちょっと、その姿でそんなこと言わないの!」


 黒瀬くんは顔を背けて肩を揺らした。笑いをこらえているようだ。


「あ、ごめん」


 秋菜は肩をすくめる。演奏中はわたしより先に前を行っている気がしたが、十年前と変わらない空気に安堵した。


「今、二人とも何しよん?」


「わたしは建設会社の経理部で働いてるよ」


「俺は医者」


「そっかぁ」


 いろいろ話し込みそうになった時、黒瀬くんがスマホを取り出して「悪い、電話」と言ってホールから出て行った。広い空間に秋菜と二人きりになる。


『同窓会の件、訊いて来て欲しい』


 ふと夏樹に頼まれたことを思い出した。秋菜とは会わない予定だったので訊く気はなかったが、チケット代一万円をタダでもらった負い目がある。義理で訊いてみようか。


「秋菜……」


 しかし、秋菜によって遮られた。


「春香ちゃん。うちな、結婚してピアノ辞めるんよ」


「……え?」


 突然のカミングアウトに思考が停止する。結婚? ピアノを辞める? 全く繋がらない。どういうこと?


「芹澤さーん。どこー?」


 舞台裏から秋菜を呼ぶ声がした。秋菜は「抜け出してきとって」と小声で体を小さくした。


「話したいこととか訊きたいことは山ほどあるんじゃけど、今日は時間がないけぇ……世間的にはお盆休み? の十三日には広島に帰るけぇ、春香ちゃんも帰るんじゃったら」


「芹澤さーん!」


「あーごめん、もう行くね。今日はありがとう。じゃあ、またね」


「え、あ、うん。また」


 はーい、芹澤ここでーす! と言いながら、秋菜は舞台袖に消えていった。その方角を目で追いかける。十三日。猫本建設工業のお盆休みは、その日から四日間ほどだったはずだ。


「悪い……ってあれ、芹澤は?」


 電話を終えた黒瀬くんが帰ってきた。わたしは首を横に振って「もう行っちゃった」と苦笑した。


「そっか。じゃあ、俺たちも帰るか」


 外に出ると、すっかり暗くなっていた。ムッとした夜の空気に包まれる。


「うわ、暑……」


「ほんとに暑いね」


 夏は日が照っていない夜も暑いから嫌いだ。冬は冬で一日中寒いので嫌いだけど。


「そういや夜ご飯食べてないな。どっか行く?」


「そうだね。言われてみたらお腹空いたかも」


「じゃあ、ファミレスにするか」


 黒瀬くんの提案で、二十四時間営業のファミレスに行くことにした。車に乗せてもらう。


「芹澤と話せた?」


「あー、ううん。あんまり話せなかった」


「そっか。プロって忙しいんだな」


「うん。そうみたい」


『わたしな、結婚してピアノ辞めるんよ』


 秋菜の言葉が頭をよぎった。結婚。黒瀬くんを好きだった秋菜が、別の人と一緒になる。


 大学の同期にも、結婚していたり婚約していたりする人は何人かいて、二十七歳にもなれば珍しいことではなかった。でも、十年ぶりに会って『結婚する』と聞かされて動揺した。ましてや国際結婚なんて。やっぱり秋菜はわたしより遥か前を行っている。


 五分ほど車を走らせたところにあるファミレスで止まった。夜ご飯の時間は過ぎていたが、そこそこ人がいた。窓際の席に案内されたので、向かい合って座る。


「ファミレスってなんか久しぶりだな。学生の頃はよく来てたけど」


「わたしも久々かも。もっぱら居酒屋だし」


 黒瀬くんは和風ハンバーグ、わたしはミートドリアを注文し、お冷で軽く乾杯した。飲み物を持つと、それがお酒でなくても乾杯したくなる歳なのだ。店内には最近の音楽が流れていた。


 お冷を置いた黒瀬くんに「そういえば」と話しかける。


「病棟看護師さんの名前、覚えた?」


「あー。全員は分かんないけど、師長さんとか長くいる人とかは覚えた」


 一緒に小児科で働いていた頃、一度黒瀬くんがナースステーションに「看護師さん」と言って来たとき、その場にいた看護師全員を振り向かせたことがあった。その時のリーダーに「名前呼んでくれないと」と言われ、看護師の名前を覚えていなかった黒瀬くんはわたしを見て「あー、じゃあ井上、さんで」とその日からわたしだけを呼ぶようになった。


 「ちゃんと覚えないとダメだよ」と言ったら「一ヶ月だけだし、井上がいるならそれでいい」と黒瀬先生の担当は井上さんという分担が当時の小児科では板についていた。


「じゃあ今は担当看護師は付けてないの?」


 軽口を叩くと料理が運ばれてきた。黒瀬くんは「ごゆっくりどうぞー」と去っていくウェイターに「どうも」と会釈すると、わたしを軽く睨んできた。


「井上以外の担当はいらない」


「え……」


 黒瀬くんは慣れた手つきでナイフとフォークを使い、ハンバーグを切る。反応が遅れたわたしに対して、黒瀬くんは銀縁眼鏡の下から上目遣いでわたしを見た。


「俺のこと、考えてくれた?」


 訊かれる気はしていた。この間『酔ってない頭で考えて』と言われ、今日は居酒屋ではなくファミレスだ。お互いお酒は一滴も入っていない。


 わたしは両手を膝の上に置いて「うん。ちゃんと考えた」と黒瀬くんを真っ直ぐ見た。わたしの気持ちをきちんと伝えなくては。


「黒瀬くんには本当に感謝してる。あの時黒瀬くんがいなかったら本当にわたしはダメになってたかもしれない。それなのに突き放したりしてごめんなさい」


「それはもういい。俺が聞きたいのはそれじゃな」


「わたしも黒瀬くんの担当がいい」


「え」


「黒瀬くんが好き、です」


 二十七年生きてきて、告白をしたのは初めてだった。心臓が飛び出そうなほど早く脈打つ。黒瀬くんは信じられないというような顔で、目を見開き口を半開きにしたまま「本当に?」と言った。


「酔ってないよな?」


「うん。お冷しか飲んでない」


「夢でもない?」


「うん。ほら、痛いでしょ?」


 手を伸ばして黒瀬くんのほっぺを軽くつねった。すると黒瀬くんの大きな手に包み込まれた。視線は合わさったまま、黒瀬くんは優しく微笑んだ。


「真剣に考えてくれたんだな。絶対、絶対大事にするから」


「……うん。ありがとう」


 黒瀬くんはわたしの弱いところも全部知ってくれているので、身を委ねてもいいと思った。真っ直ぐわたしを見てくれる黒瀬くんを、わたしも真っ直ぐ見たい。


 それからわたしたちは時間をかけて食事を楽しんだ。



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