高貴なデート③
「井上? 大丈夫か?」
パンフレットを見つめたまま固まるわたしの肩に、黒瀬くんの手が添えられた。ハッとして微笑みを返す。
「大丈夫。人ごみに少し酔っただけ。行こ」
不安を悟られないように、わたしは歩を進めて開場している扉をくぐった。
中に入ってホールのあまりの大きさに目を瞠った。隣で黒瀬くんも「おお」と感嘆の声を漏らす。一階席から三階席まであり、数千人は収容出来そうだ。ステージを見れば手前の中央に大きなグランドピアノが堂々と佇んでおり、屋根と呼ばれる音量を調節するピアノの蓋は大きく開けられている。
昔、秋菜がグランドピアノの屋根は音を反響させる役割があり、ソロで弾くときやオーケストラの中で弾くときは大きな音が出るように全開にするということを言っていたのを思い出した。
ピアノの後ろには半円を描くように椅子がいくつか並べられている。オーケストラの席だろう。けれど、ピアノの存在が大きすぎて目が行かなかった。あのピアノを幼馴染が弾く……にわかには信じ難い。
「E列18番……ここだ」
黒瀬くんがチケットと椅子に書かれた番号を見比べて席を見つけてくれた。一階の真ん中辺りの席だ。隣同士で座る。
「さすがS席。迫力ありそうだな」
「ちょっと近い気もするけどね」
ステージは客席よりも高いところにあるので、ステージに近いこの席からは座るとピアノと前列数列しか見えない。
「俺ちょっとトイレ行ってくる。井上は?」
「わたしは大丈夫」
黒瀬くんは小さく頷いて席を離れた。黒瀬くんを見送って、受付でもらったパンフレットに目を落とす。中を開くと秋菜の経歴とオーケストラの歴史、そして今日演奏する曲の解説が書かれていた。秋菜の経歴を読んでみる。
『広島生まれ。三歳よりピアノを始める。パリ国立高等音楽院、修士課程を首席で卒業。在学中からパリ、ミラノ、ロンドンなど各地で演奏。全日本学生音楽コンクール全国大会小学校の部第一位、中学校の部第二位、高校の部第一位。その他数々のコンクールで優勝。パリでのデビューリサイタルが大成功を収め、その演奏と才能を高く評価される。現在はパリを拠点にソロリサイタルやオーケストラとの共演、ゲスト出演等、コンサートピアニストとして活動している。デビューCD「bel automne」は「ピアノの友」、「音楽の心」など各誌で高く評価され注目を浴びた』
何も知らなかった。わたしの知らない秋菜の十年をたった数行だけで綴られているが、とにかくすごく優秀なピアニストだということは痛いほど伝わってきた。きっとたくさんの苦労をしたのではないだろうか。学生の頃は挫折だとか躓いたりだとか、そういったことは聞かなかったが、知らなかっただけで彼女はとてつもない努力をしてきたんだ。
そのままパンフレットを見ていると、会場に長いブザー音が響き渡った。鳴り終えると同時にアナウンスが流れる。
『開演まであと五分です。ロビーにおいでのお客様はお早めにお席にお着きください』
「満席だぞ。すごいな」
トイレから帰ってきた黒瀬くんが、周りを見ながら肩をすくめた。後ろを振り返ると、確かに空席はあまりないように思えた。チケットが完売するほどだ。相当人気なのだろう。
ステージの方から足音が聞こえたので前を向くと、楽器を持った人たちが舞台袖からぞろぞろ出てきた。もうすぐ始まるのだろうか。お客さんの多さと秋菜の勇姿を目の当たりにできる高揚感に、なぜか少し緊張した。
再びブザーが鳴り響く。客席の照明が暗くなり始めるとともに、周りのざわめきが収束していった。
舞台上にはオーケストラの人たちしかいない。ピアノの一音が鳴らされ、それに合わせるようにさまざまな楽器の音が響き渡った。
一斉に音が止み、静寂に包まれる。
しばらくして左側下手から黒い燕尾服を着たダンディーな人が出てきた。パンフレットに載っていた指揮者だ。彼は立ち止まって後ろを振り返ると、手のひらを上に向けた。その手に白い手が乗せられたと同時に薄いピンク色のドレスを着た人が姿を現した。秋菜だ。
彼女は恥ずかしそうに微笑んで指揮者と一緒にステージを歩く。パンフレットの写真で感じた通り、長い黒髪はツヤツヤで肩と腕を露出させたステージ衣装はスタイルをかなりよく見せている。
高校生の頃はそうでもなかった胸が、十年経った今はかなり強調されていた。本物なのか、あれは。
ピアノの前まで来た秋菜は、ニッコリと微笑んで礼儀正しく頭を下げた。それまでまばらに鳴っていた拍手の音が、一気に大きくなった。わたしもつられて拍手を送った。
スカートを押さえながら椅子に座る。秋菜は目を閉じて大きく息を吸った。集中しているのだろうか。その目を開けたとき、わたしは息をのんだ。目の色が変わったからだ。秋菜は指揮者と目を合わせると、小さく頷く。指揮棒が上がり、管楽器が静かな音を奏で始めた。それを聴いて秋菜の手がピアノの鍵盤に添えられる。
木管楽器の静かな和音の中に秋菜のピアノは優しく溶け込んでいった。
パンフレットに書かれていた一曲目は、サン=サーンスのピアノ協奏曲第5番。曲名を見ても演奏を聴いてもまったくピンと来ないが、優しい導入部は小鳥と会話できそうな秋菜にピッタリな曲だと思った。
次第に手が低音と高音を行ったり来たり忙しなく動いていく。それでも秋菜は体を揺らしながら、手を跳ねさせたり交差させたり、楽しそうに演奏していた。
時にオーケストラの音に溶け込み、時に自分が主役だと言わんばかりにピアノを強調させたり、『詩音オケwith秋菜』だったはずなのに、『秋菜with詩音オケ』だったかと思わせるほど存在感が大きかった。
ただ、圧倒された。音楽室できらきら星を弾いていた頃の秋菜は、ここにはいなかった。難しそうな連符を何でもないように弾いていく彼女は、わたしの知らないプロの顔だ。クラシック音楽なんて寝てしまうのではないかと思っていたが、むしろアドレナリンが放出されて覚醒していた。秋菜が演奏する姿から目が離せない。
第三楽章まである曲の間中、楽章の間以外で秋菜の手が鍵盤の上から離れることは無かった。
フィナーレに向かって曲の物語は進んでいく。
わたしが座っている席から秋菜までの距離は近いにもかかわらず、どんどん距離が離れていく感じがした。このまま見えなくなってしまいそうだ。秋菜とわたしの間に流れた十年は、わたしが過ごした十年と流れ方が違っている。わたしは十年で一歩も進んでいないのに、秋菜は背中が見えないほど前にいる気がした。




