高貴なデート②
秋菜のコンサートのことは伝えてあった。黒瀬くんは「プロになってから聴いてないから行こうか」と快く頷いてくれた。ただ、チケットを会社の人が譲ってくれたと言ってあり、夏樹から託されたとは言ってない。
黒瀬くんの先導で階段を下りる。駐車OKの路肩には、黒のコンパクトカーが停まっていた。医学部在学中に免許を取得したことは知っていたし、飛鷹総合病院まで車通勤していたのも知っていたが、乗せてもらったことはなかった。今日、二駅先のコンサートホールで秋菜の演奏会があると言った時「じゃあ車出すよ」と言ってくれたのだ。
助手席を空けた黒瀬くんに、「どうぞ」と促される。乗り込むと、優しいせっけんの香りがした。
「匂い大丈夫? 芳香剤とか置かないから慌てて買ったんだけど」
運転席に腰掛けながら黒瀬くんが心配そうにわたしを見た。どうりで匂いが車に馴染んでない感があったわけだ。わたしは小さく首を横に振った。
「黒瀬くんらしくてわたしは好きだよ」
「……ならよかった」
ふい、と顔を背けられ「じゃあ出発します」と言ってゆっくり車を出した。その横顔は少し赤い。
『黒瀬くんらしくてわたしは好きだよ』
自分で言ったセリフを思い出し、わたしは自分の膝元を見た。違う、そういう意味で言ったんじゃないけど違わなくもなくて、うわ、どうしよう恥ずかしっ!
夏の六時過ぎはまだまだ明るい。照り付ける太陽のせいか、それともわたしのせいか、はたまた黒瀬くんのせいか、頬を朱に染めたわたしと彼は、気まずい空気を車内に充満させた。小さく蝉の声も聞こえる。
「……芹澤ってフランスにいるんだっけ?」
沈黙を破ったのは黒瀬くんだった。わたしは勢いよく頷く。
「うん。プロになって拠点をフランスのパリにしたまま活動してるらしいよ」
「すげぇな。あの芹澤が長いフランス語話してるところなんて想像できない」
「確かにね。昔練習してたのは短い文章だったし」
言いながら秋菜の容貌を思い出す。おかっぱ頭にパッツン前髪に肩までの黒髪で日本人形みたいな容姿。あの風貌でその口から流暢なフランス語が話されるとは到底思えなかった。
思わずクスリ、と笑うと黒瀬くんは「ソロコンサートなの?」と訊いてきた。わたしは財布からチケットを取り出して答える。
「いや、オーケストラと共演するみたい。『詩音シンフォニーオーケストラwith芹澤秋菜』って書いてあるよ」
「詩音オケ? 結構有名なところじゃん。え、席ってどの辺?」
クラシック音楽に疎いわたしはよく分からなかったが、黒瀬くんが知っているなら有名なのだろう。席を訊かれて、そういえばマジマジと見てなかったなと席番号を見る。
「S席……」
いくら疎いと言ってもコンサートの席くらい知っている。S席は一番いい席だ。思わずスマホを手にして『詩音オケ コンサート チケット』と検索してチケットセンターのホームページを出した。スクロールして今日の公演情報を探す。購入ボタンは『SOLD OUT』で選択できなくなっていたが、表示された値段を見て目を見張った。
「い、一万円……」
夏樹ってばこれを二枚も……それなら相当来たかったんじゃないだろうか。
「え、一万? 俺、自分の分出そうか?」
「いいのいいの! 普段よくしてあげてる人からもらったから、気にしないで」
嘘はついていないので罪悪感はない。わたしは夏樹によくしてあげすぎていると思う。
それにしても一万円……『with芹澤秋菜』ってことはオーケストラがメインで秋菜がオマケってこと? じゃあこれはオーケストラに対しての値段なのだろうか。それとも秋菜?
などと下世話なことを考えていると、左手前方にドーム型のコンサートホールが見えてきた。近くの有料駐車場に車を停めて歩く。
「すげぇ人だな」
「うん」
有名オーケストラだからか、たくさんの人がいた。同じ方向に歩いていく人達はみんな一様にオシャレをしていて、思わず自分の格好を上から見下ろした。平日のこの時間から来る人たちなので、わたしと同じように仕事終わりの人もいるのだろうけど、色鮮やかな人が多い気がする。あ、着替えを持ってくればよかったのか。などと悶々していると、上から耳元で囁かれた。
「大丈夫。今日も井上は可愛いよ」
「!」
顔を上げて黒瀬くんを見ると、バッと反対側を向かれた。その耳は真っ赤だ。一気に心拍数が上がる。自分で言っといて照れるなんて反則でしょうが!
「もう黒瀬くん!」
憤慨すると「ごめんごめん」と赤い顔のまま謝られた。
分かっている。黒瀬くんもわたしも、なんとなく浮足立っているのだ。なんせ今日は酔っていない。お互いに素面で、オーケストラのコンサートという少し高貴なデートに色めいていた。夏樹から託された秋菜との接触は、しないつもりだ。だってわたしは薄情だから。
時刻はすでに午後六時四十分を過ぎていた。開場しているにもかかわらず指定席だからか、ホールの外の建物内には人がたくさんいた。日本人や肌の白い外国人などいろいろな人たちがいて、日本語でない言語で話す声がする。
途中で背の高い白人男性とぶつかってしまい、早口で「Pardon, Excusez-moi」と言われたが、小さく会釈することしか出来なかった。
受付でチケットを渡すとパンフレットをくれた。オーケストラの写真の上には、ピアノを弾く女性の写真があり、一目で秋菜だと分かった。
パッツン前髪は変わらないが、おかっぱ頭だった後ろ髪は腰まで伸ばしサラサラの黒髪で、写真からでも手入れが行き届いているんだなと分かる。真っ白な肌を惜しげもなく晒し真っ赤なドレスを着た彼女は妖艶な雰囲気を醸し出していた。
写真からは給食のおばちゃんみたいな柔らかい優しさなど微塵も感じられなかった。秋菜なのに秋菜じゃない。わたしの知っている秋菜では、もうなかった。
もしかしたら秋菜は、わたしのことなんて忘れるんじゃないか。ふとそんな不安が脳裏をかすめた。




