高貴なデート①
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秋菜は音楽が好きで、常に何かを口ずさんでいた。ピアノは三歳の頃から始めて、音楽を口ずさむとともに指が動いていて、頭の中はどうなっているんだろうと思った時もあった。ピアノの先生に薦められて出場したコンクールでは、数々の賞を総なめして家にトロフィーや賞状が腐るほどあるらしかった。
「芹澤のピアノって、なんか分からんけど病気のこと忘れさせてくれるんよな」
中学三年生の冬休み前。音楽の先生に許可をもらってわたし、夏樹、黒瀬くんの三人でピアノを弾く秋菜を囲んでいた時に、ボソッと夏樹が呟いた。しっとりとしたバラードを弾いていた秋菜の演奏が止まる。
「ホンマ? 癒されてくれるんなら弾きがいがある」
嬉しい時に弾く、跳ねたリズムの短い曲を奏でた。
この頃秋菜は、将来プロのピアニストになるなどということは言っていなかった。ただピアノが上手く弾ける中学生。わたしも秋菜のピアノには癒し効果があると思っていたので、こう言った。
「セラピストとか、向いとんじゃない? 性格も穏やかじゃし」
おかっぱ頭のパッツン前髪で日本人形みたいな容姿をしていたが、給食のおばちゃんのような穏やかな雰囲気を出していた。おっとりした口調で高めの声は、小鳥と会話できるんじゃないかとさえ思ったことがある。そんな彼女にはピッタリの職業だと思った。
「セラピスト! おお、想像できるわ」
夏樹が声をあげる。しかし、黒瀬くんが銀縁眼鏡のブリッジを上げて「勿体なくね?」と言った。
「そんなに上手いんじゃったら、プロのピアニストになった方がええんじゃない?」
秋菜はこの頃にはすでに黒瀬くんのことが好きで、話しかけられるだけで顔を赤くしていた。黒瀬くんにそんなことを言われた秋菜は、耳まで赤くして小さく頷いた。
「分かった。わたし、プロになる」
それから秋菜の夢はピアニストになった。
もともと才能があった秋菜は、特に挫折だとかそういった類の躓きには引っかからなかったのではないかと思う。難しそうな曲も涼しい顔で弾きこなす彼女は、誰よりも夢に近付いているように見えた。
◇
『井上の会社前にいる』
翌日午後六時。定時と共に黒瀬くんからメッセージが届いた。え、もう来たの早くない? わたしは慌てて机の上を片付けた。やり残した仕事はない。パソコンもシャットダウンする。
「すみません、急いでるんでお先に失礼します」
カバンを肩に引っ掛け、足早に帰ろうとすると小西くんに「早っ」と言われた。
「井上さん、デートっすか?」
ニヤニヤしながらわたしを見る。くそ、相談なんかするんじゃなかった。
「こら、小西くん。井上ちゃんをからかわないの」
すかさず理佳子先輩が叱ってくれた。小西くんは「はーい」とおどけて「お疲れ様でしたぁ」と送り出してくれた。ありがとうございます理佳子先輩。わたしは小さく頭を下げて経理部の部屋を出た。
理佳子先輩には今日の昼休憩に、黒瀬くんのことと夏樹のことを洗いざらい話して相談していた。わたしの気持ちを正直に話すと、理佳子先輩は『井上ちゃんが真剣に考えて出した結論だから、大丈夫だよ』と言ってくれた。
自動改札を抜けて外に出ると、階段手前で下を向いて眼鏡のブリッジを上げる黒瀬くんがいた。白いTシャツの上からオリーブ色で五分袖のコーチジャケットを羽織り、アンクル丈の黒スキニーパンツ姿の彼は、背の高さも相まってかなり目立っている。定時なので帰宅する人たちも多く、女性たちはチラチラ黒瀬くんを見ながら通り過ぎていた。
思わず立ち止まって自分の服を見る。
大きい会社のくせに事務服は私服なので、派手なものは着れない。上は白ブラウスに下は総レースの水色フレアスカートといった清楚系にした。耳にはさっきトイレに寄って着けた淡い小さなピンクの花のピアス。セミロングの髪は緩めのポニーテールでまとめた。一応化粧も直したけど、大丈夫かな。もう一度鏡で確認した方がいい気がする……と考えあぐねていると、黒瀬くんに見つかった。
「井上!」
手を挙げてこちらに歩いてくる。周りの人たちに「彼女いたんだ……」とか肩を落とされた。やめて、なんかすごく恥ずかしい。
「ご、ごめん、遅くなっちゃって」
「俺が早く着きすぎた。路駐してるから、行こ」




