好きだった人②
思えば、わたしは恋愛というものをしてこなかった。大学に入れば気になる人とか好きな人とかできて、恋人を作ったりなんかして人並みに楽しい生活を送れるものだと思っていたが、現実は違っていたようだ。
東京に来てから関わった異性と言えば、黒瀬くんと小西くんと夏樹くらいかもしれない。しかも、今まで好きになった人と言えば夏樹だけだ。夏樹への気持ちに蓋をしてから誰かを好きになっただろうか。否、ない。そもそも、付き合うって何。好きってどういうこと?
今頃の小学生でも答えられそうな疑問が湧く。検索してみようかな……
「あのー、井上春香さんいます?」
パソコンで検索エンジンページを開いた時、入口からわたしを呼ぶ声がした。立ち上がって「井上はわたしですが……」と歩を進めたが、立っている人物を見て足を止めた。
「……何の御用でしょうか?」
その人はネクタイのない薄青色の長袖ワイシャツの袖を二の腕まで捲り上げ、「俺暑いんです!」とアピールしているように見えた。首から下げた社員証の名前は『友川夏樹』。
「明日から大阪出張になったけぇ仮払金? 欲しくて」
「それわたしじゃなくてもできますけど」
わざわざ名指しして呼びつけなくても。しかもできれば今会いたくない人なので関わりを極力避けたい。
「誰でも出来るなら春香を指名します!」
「ここはキャバクラじゃありません!」
小西くんに代わってもらおうと思ったが、彼はトイレに立っていた。理佳子先輩も休みだし、月見班はまだ休憩から戻っていない。今経理部で処理できるのはわたししかいなかった。
「はぁ……じゃあ申請書ちょうだい」
「はい、お願いします」
なるべく接触せずにちゃっちゃと済ませよう。受け取った紙を見て思わず眉をひそめた。字が汚い。辛うじて読めるけど、営業ならもうちょっときれいな字を心がけて欲しい。
「ここで待ってて」
わたしは夏樹を入口付近で待たせて処理することにした。ペンで書いてある内容を指差しながら確認していく。申請日付オッケー、出張日数オッケー、内容オッケー、社員番号は……
「へー。春香の席ここなんだ」
聞き慣れた声が後ろから聞こえた。振り返ると入口付近で待たせてあるはずの夏樹が立っていた。
「何してんの。あそこで待っててって言ったじゃん」
「だって、春香の仕事っぷりを間近で見たかったんじゃもん」
シュンと垂れる耳と尻尾。なんでこいつはこんなにあざといんだ。あー頭痛い。
「経理なんて興味ないでしょ」
「春香がやっとる仕事に興味がある」
夏樹と話してるとどうもイライラしてならない。多分夏樹のこと嫌いになったんだと思う。そうだ。もう好きじゃない。嫌いなんだ。
「……社員証見せて」
首から提げた社員証を見て番号が間違えていないかチェックする。名前もオッケー、営業部長印もオッケー。立ち上がって現金の入った金庫から支払う金額を取り出す。記帳も忘れない。夏樹の前で金額が間違っていないか確認してもらう。よし、オッケー。
「じゃあここにサインして」
受け取り欄にサインさせる。抜け漏れなし。任務完了。
「はい。これで終わり。気を付けて行ってらっしゃい」
用事が終わったので手を振ると、夏樹は「え、もう終わり?」と目を丸くした。お金渡すだけなのに他に何をしろというんだ。
「なに、まだ何かあるの?」
早くここから立ち去って欲しいんだけど。わたしの心情を知ってか知らずか、夏樹は人差し指で頬をポリポリと掻いた。
「大阪土産、買うてくるけぇ」
「別にいいよ、気を遣わなくて」
しっしっと手で追い払う仕草をすると夏樹は頬を膨らませて「絶対買うてくる」と言って中々立ち去ろうとしない。それどころか腕を組んで仁王立ちになる。何をそんなに意地になってるんだ。
「なんなのもうっ。何か御用ですかっ」
睨んでやると、後ろから月見班が帰ってきた。
「月見班帰りました〜」
ふくよかな四十歳主婦の月見さんが夏樹をチラッと見て、わたしに「さっき小西くんと会った時そのまま休憩行くよう言ったから、井上ちゃんも休憩行きな」と言ってくれた。
それを聞いた夏樹の顔がパッと明るくなった。なにか嫌な予感がする。
「春香、休憩まだなん?」
「まだですけど」
「じゃあ一緒に行こ!」
夏樹はわたしが肯定するのも否定するのも待たずに、手首を掴んで引っ張った。月見班三人に声を揃えて「いってらっしゃーい」と見送られる。なに、なんなの、なんで夏樹と一緒に昼休憩取らなきゃいけないの?
「ちょっと夏樹……」
「こないだのお詫びさせてや」
エレベーターホールで立ち止まる。
こないだのお詫び? 何のことか分からず首を傾げると夏樹は困ったように笑った。
「ジョッキ半分で泥酔事件のお詫び」
「ああ……」
そういえばそんなこともあったっけ。迷惑を掛けられた割にはすっかり忘れてしまっていた。
「いいよ別に。営業部戻れば?」
「休憩終わったら外回りじゃし、今度俺が奢るって約束したけぇ、一緒に食べに行こうや」
「約束はしてないと思うけど」
「いいけぇ。奢らせて」
眉をハの字にして懇願される。捨て犬を彷彿とさせるその姿を一蹴できるわけもなく、わたしはため息をつきながら「じゃあお願い」と頷いた。




