過去⑩
◇
「あの時、井上を引き止めたくて必死で、もっと違う言葉を掛けたら良かったって後になって思った。それはさ」
黒瀬くんはそこで言葉を切ると、テーブルの上に置いたわたしの手にそっと触れた。
「俺には井上が必要なんだ」
今も昔も変わらない黒瀬くんの真っ直ぐさは、曲がりくねってしまったわたしには眩しい。わたしは黒瀬くんを直視できず、目を逸らした。
「井上」
握られた手に力が入る。ゆっくりと視線を合わすと、黒瀬くんは言った。
「俺は井上がずっと好きだ」
予想していたはずの言葉だったのに、心臓の鼓動が速くなった。黒瀬くんの瞳に、わたしが映る。その表情を見て自分でも動揺しているのが分かった。
店内にはゆったりとした洋楽が流れている。
しばらく見つめ合った後、黒瀬くんは手を離してバーテンダーさんに軽く手を挙げた。「チェックで」と声を掛けて手早く会計を済ませる。そして「行くぞ」と再びわたしの手を掴んで立ち上がった。突然の行動に頭が追い付かない。手を引かれるがままバーから出た。
「え、ちょっと、黒瀬くん?」
何も言わずズンズン進む背中に声を掛ける。手を繋いで歩くカップルたちがチラとわたしたちを一瞥した。
「どこ行くの……」
すると黒瀬くんは立ち止まってわたしを振り返った。
「ごめん、酔ってる。駅まで送らせて」
「え、あ、うん。ありがとう」
繋がれた手は離されることなく、むしろ強く握られた。振りほどく理由もなく、そのまま横並びになる。拒絶されないと分かったのか、黒瀬くんはゆっくり歩き始めた。
時刻は午後十一時前。大通りに面している歩道には、手を繋いで歩くカップルが何組かいた。周りから見ればわたしたちもカップルに見えるのかもしれない。でも、不思議と嫌ではなかった。
黒瀬くんは小さくため息をつくと、メガネのブリッジを押し上げた。
「酔ってるついでにぶっちゃけるけど。昨日、井上から電話がかかって来たとき、当直中だったし出ようか一瞬ためらった。でも、気付いたら通話ボタン押しててさ。そしたら『明日、時間ある?』って聞かれて『無い』なんて口から出なかった。声聞いただけで会いたくなった」
黒瀬くんは真っ直ぐ前を見据えた。黒瀬くんの言った意味が分からないほど、もう子どもではない。黒瀬くんは続ける。
「大学二年生のクリスマス、井上に『幼馴染の領域を出ない』って言われてそこで諦めたつもりだったんだ。なのに飛鷹総合病院で会うし、忘れさせてくれないわけ」
あの時わたしは、どうしても黒瀬くんと恋人同士になるということに前向きになれなかった。
「……あの時は中途半端な気持ちで付き合えなかったんだよ」
「俺がそれでもいいって言ったのに」
「黒瀬くんには誠実でいたかったから」
「なんで?」
「だって、大切な人だもん」
そう言うと黒瀬くんは立ち止まって驚いた表情でわたしを見た。え、わたし何か変なこと言ったかな。
「『別に用があったわけじゃない』って言ってたけど、じゃあなんで昨日俺に連絡くれたの?」
「なんでって……」
わたしはそこで考える。なんで黒瀬くんに電話したんだろう。昨日は確か小西くんと飲んで、その後に夏樹と会って黒瀬くんの話になって……
その時、わたしが思ったのは。
「……会いたくなったから?」
呟いたと同時に、車道を走る車が長いクラクションを鳴らした。黒瀬くんが眉をひそめる。
「ごめん、聞こえなかった。なんて言った?」
ハッと我に返ってわたしはかぶりを振った。今、わたし、なんて言った?
繋がれた手は、少し汗ばんでいる。どちらの汗かは分からない。
「いや、なんでもな」
「井上」
黒瀬くんは繋いだ手を引っ張って自分の方へ引き寄せた。わたしは前のめりに倒れかけ、おでこが黒瀬くんの胸に当たる。甘いワインの香りが鼻を掠めると同時に、力強く抱きしめられた。
「黒瀬く……」
「井上も酔ってない頭で、俺のこと考えてみてくんない?」
耳元で囁かれた言葉は、自信なさげで弱々しかった。カッと顔が熱くなる。どうやらわたしも酔っているらしい。ビール五杯飲んでも酔わないのに、カクテル一杯で酔ったのはあのバーの雰囲気のせいだ。
「……うん、わかった」
わたしは小さく頷いた。この先、これ以上わたしのことを見てくれる人は現れないかもしれない。黒瀬くんは幼馴染で、よき理解者でもある。わたしを必要だと言ってくれるこの人のことを、真剣に考えたかった。
それからわたしたちはこぶし一つ分の距離を空けて駅まで歩いた。改札口が見えたところで黒瀬くんが立ち止まる。
「じゃあまた連絡する。気を付けて帰れよ」
「うん。今日はありがとう」
黒瀬くんは片手を上げて踵を返した。わたしはその背中が見えなくなるまで見送った。
看護師を辞めて黒瀬くんとも連絡を絶ってから二年間、一度も黒瀬くんのことを考えなかったわけじゃない。元気かな、くらいには気にしていた。多分、夏樹のことを考えるよりもずっと黒瀬くんのことを気にしていたと思う。それは、やっぱり、そういうことなのだろうか。
夏の虫がやけに静かに聞こえた。
空を見上げると満月一歩手前の月が浮かんでいて、今にも落ちてくるんじゃないかと錯覚してしまいそうになる。
やっぱり酔っている。
わたしは小さく息を吐いて、改札を抜けて家路に着いた。




