過去⑨
小児科病棟で三年看護師をやっていると、二桁の年齢に達することなく命を落としてしまう子たちを何人か見てきた。颯太くんがその中に入ってしまったという事実を直ぐに受け入れられず、その日は何事も無かったようにいつも通りの仕事ができた。颯太くんの手術予定は延期になって今いないのは外出してるからだ、と言い聞かせていたのだ。
颯太くんがもういないと分かったのは、日勤が終わって帰る頃だった。
「井上」
ナースステーションから出ようとしたところに声を掛けられた。銀縁眼鏡を掛けて白衣を着た黒瀬くんが肩で大きく息をしている。急いで来たようだ。
「ごめん、一日外来でカンファレンスとかあったから来れなかった」
最初はどうして謝ってるのか分からなかった。首を傾げると、黒瀬くんは「大丈夫か?」と言った。
「もう我慢しなくていいから」
我慢。
わたしはその一言で今日起きた出来事が脳にフラッシュバックし、急に視界がぼやけた。
鳴り響く心電図の警告音。
泣き叫ぶ女性の声。
谷本先生が首を横に振って腕時計を確認して口が動く。
──ご臨終です──
「あ、あ、そう、た、くんが……」
「うん」
「わた、わたし、なにも、出来なかったっ」
「うん」
「黒瀬先生、ICルームが空いてます」
「あ、すみません。ありがとうございます」
誰かが黒瀬くんに耳打ちして、黒瀬くんがわたしを近くの部屋に誘導した。机に大きなディスプレイのパソコンが一台置いてあるだけの部屋に入り、黒瀬くんがドアを閉めると共に鍵をかけた。気心知れた幼馴染と二人になって、堰を切ったように涙が溢れる。
「く、黒瀬くん。ど、どうしよう」
「うん?」
「わた、わたしの、しょ、初期対応がっ」
「それは違う。井上の初期対応は完璧だった。俺が保証する」
「で、でもっ颯太くん、た、助からなかった……!」
「うん。俺も悔しいよ」
黒瀬くんは取り乱すわたしとは反対に冷静だった。多分医師として引きずるわけにはいかなかったのだろう。
「や、約束、したのにっ」
「約束?」
「ずっとそばにいるって、颯太くんと約束したっ」
手術が怖いと言った颯太くんと指切りげんまんをした約束。
わたしがここまで颯太くんに肩入れをしてしまっていたのは。
「な、夏樹と同じっ……だったのにっ」
そこでわたしはうまく息が出来なくなった。そのまま過呼吸を起こす。それでも黒瀬くんは冷静にわたしを椅子に座らせ「大丈夫。落ち着いて、ゆっくり息吐いて」と優しく背中を撫でてくれた。言われた通りゆっくり息を吐く。
初めて過呼吸になったので、かなり怖かった。うまく息が吸えない。黒瀬くんはわたしが一人になるとこうなるかもしれないと予想して、泣き場所を作ってくれたのだろうか。
「吸って、吐いて」
黒瀬くんの言う通り呼吸を整えていく。
しばらくして落ち着いた頃、黒瀬くんはしゃがんでわたしの顔を覗き込み「井上」と言った。
「颯太は夏樹じゃない」
銀縁眼鏡の奥の瞳がわたしを捉える。優しさを含みつつも少し怒りが見える目をしていた。
「一緒にするな。同じ病気だっただけで別人だ。そこを間違えたらダメだ」
そう言われてようやく黒瀬くんがわたしを気にしていてくれた理由が分かった。わたしが颯太くんに夏樹を重ねていたことを察していたのだ。正直自分でもそんなつもりは無かったので驚いた。しかし、過呼吸を起こしたのは夏樹の名前を出した時だったので、やはりどこか心の奥で二人を重ねていたんだと思う。
「井上は最期まで颯太のそばにいただろ。ちゃんと約束守ってるから」
しゃくり上げるわたしの目元を、黒瀬くんが白衣の袖で拭ってくれた。
「引きずるのは今日までだ。俺がいるから大丈夫。全部吐き出せ」
この時もし黒瀬くんがいなかったら、わたしはどうなっていたか分からない。黒瀬くんの言葉に、わたしは素直に甘えた。それは、やっぱりわたしのことをよく知る幼馴染だったからだと思う。
『一緒に東京に行こう』と誘ってくれた時も、わたしが夏樹に必要ないと言われた気がしたから逃げ道を作ってくれた。辛い時にそばにいてくれたのはいつも黒瀬くんだった。
『引きずるのは今日まで』と言われたのに、弱かったわたしは二ヶ月後、看護師を辞めた。
もうダメだったのだ。あの病室に入ることも、子どもを診ることも。
「……なんで辞めんの」
最後の日、帰り際に黒瀬くんに呼び止められた。
「颯太くんの件は関係ないよ。多分、わたしは看護師になるべきじゃなかった」
「井上は優秀な看護師だ」
「……ありがとう」
小児科の他の看護師や師長さんにもそう言われて引き止められた。颯太くんの件はみんな知っていたので、小児科が辛いなら他の科は? と勧められたりもしたが、看護師自体を辞めたかったのでわたしは首を縦に振らなかった。
「黒瀬くんがいてくれたからわたしは潰れずに済んだよ。本当にありがとね」
「……潰れてないなら看護師辞めないだろ」
「潰れたんじゃなくて、限界を感じただけだよ」
「俺は井上と一緒に患者を救いたい」
「黒瀬くん……」
真っ直ぐ見てくれるその目を、わたしは直視出来ず逸らした。
「ごめんね。わたしはもう無理なの。今まで本当にありがとう」
わたしは逃げた。その場からも、過去からも。
「俺はこんな形で看護師を辞めさせるために井上を東京に誘ったんじゃない!」
後ろから黒瀬くんの声がしたが、振り返ることはせず、聞こえないふりをして走った。
優しい黒瀬くんの手を振り払ってまで、わたしはもう看護師を続けることは出来なくなった。




